最初は、ただの噂だと思ってた。
こんな話、暫くすれば皆忘れて、誰もしなくなる。
そんな風に軽く考えていたんだ。
あの時までは……。
宵闇に現るは
「佐伯くん、ちょっと頼みたい事があるんだけど…」
同じ部署の女性社員から、資料室から取って来て欲しい物があると頼まれた。
別段 他に用もなかったから、すぐに了解したのだが。
「ごめんね。自分で行きたいのは山々なんだけど、あの噂が怖くって」
あの噂…?
何の事を言っているのか分からない、という顔をしていると、彼女の方から話題が上る。
「聞いたことない?
最近、2階の資料室に行くと、変な事がよく起こるって噂があるの」
そして、彼女は一段と声を潜めて続ける。
「最初は、小さな物音がする位だったらしいんだけど、それが段々大きくなっていったり、閉めてたはずのドアが開いてたり、中には青白い顔をした少年を見たって人までいるらしいの」
「へぇ、そんな話、初めて聞きました」
「あれ?佐伯くん、あんまり怖がってない?」
「そんなことないですよ?」
「あ、もしかして、そういう話全然信じない人?」
「そういうのでもないんですけど…」
「じゃあどういうの?」
「え〜っと…」
「佐伯さ〜ん」
向こうの方から藤田君に呼ばれて、この話はおしまいになった。
「――――ってことがあって…」
「で、君はまた体よく使い走りをさせられた、という訳か」
二人揃って帰宅した後、その様な噂を聞いたことがあるか、御堂さんに尋ねた所からこの話は始まったわけだが。
「使い走りってほどじゃ…。
やっぱり、本当に怖い人にとっては、あの場所は少し暗くて行きにくい場所だろうし…」
「その程度の事で、自分の仕事を人に押し付ける方が、霊とやらより余程質が悪い」
話が違う方向に持っていかれそうになり、オレは慌てて話題を戻す。
「そ、それで孝典さんは、幽霊の存在とか信じます?」
「今は、信じていないな」
「今は?」
「まだ自分の目で見たことがないからな。これでは信じたくても信じる要素がない」
孝典さんらしいらしいな。
そんな事を考えていると、彼から同じ質問が返される。
「オレは…。
オレの世界には映らないものでも、他の人の世界ではそれが当たり前に映るのだとしたら、完全に否定することはしたくない、と思うんです。
何を言ってるのか、自分でもよく分からないんですけど」
言っている途中で恥ずかしくなって、笑って誤魔化そうとすると、オレは御堂さんにゆっくりと抱き寄せられた。
「君は、私よりもずっと深く物事を視ているんだな」
だから私は、君に惹かれ続けているのだろうな、と柔らかな声音で言われた時は、心臓が高鳴りすぎて破裂するかと思った。
それから一週間が過ぎたが、噂は収まるどころか、右を向いても左を向いても幽霊の話題で持ち切りになっていた。
「あれ〜?おっかしいなぁ」
「藤田君、どうしたの?」
「あ、佐伯さん。何だかこのコピー機、調子悪いみたいで…」
「あ、それなら、資料室にコピー機置いてたよ」
「え!!?し、資料室ですか!?」
「うん。……あ、なんなら、オレがやってくるよ。何枚?」
「いえ、そんな!!申し訳ないし、それに…」
「大丈夫だよ。オレもついでがあるし。
終わったらデスクの上に置いとくので良いかな?」
「で、でも…」
「心配ないって。ほら、もう定時過ぎちゃってるよ?お疲れ様」
「でも〜!!」
まだ帰ろうとしない藤田君を、半ば無理やり帰宅させ、オレは資料室へと向かった。
流石に夜となると、電気を点けていてもこの冷たい雰囲気は少々気味が悪い。
やる事を済ませて、オレも早く帰ろう。
しばらくコピーに夢中になっていたオレは、背後を全く気にしていなかった。
そんなオレの背中に、温かい感触が…。
「うわぁ!!び、びっくりしたぁ〜」
「フフッ。そんなに驚くとは。私の方が逆に驚いた」
「も〜、御堂部長、驚かさないで下さい。今のは本当に心臓が止まるかと思いました」
「私はちゃんと声を掛けたぞ。気付かなかったのは佐伯君の方じゃないか。
……また頼まれ事か?」
オレの手元を見て、御堂さんの表情が一瞬変わる。
「いえ、これはオレの仕事です。向こうのコピー機の調子が悪くて」
「そうか。………もう終わるのか?」
「はい。あとこれだけです。
あ、今日も一緒に帰れそうですか?」
「ああ。だから探していたんだ。もしかしたら此処かもしれないと思ってな。
思った通りだ」
ますます早く帰る理由が出来たオレは、手早くプリントの束をまとめにかかった。
すると、後ろから、先程よりもずっと熱を帯びた手の感触がオレの首筋を優しく撫でた。
「み、御堂部長!?」
「まだ終わらないのか?」
「も、もう少しですからっ」
わたわたと慌て始めるオレとは反対に、御堂さんはさも何事もない様にオレの髪をいじったり、頬を軽くつねったりしている。
そして
「克哉」
ダメだ。
この声で名前を呼ばれて、正気でいられるはずがない。
でも、ここは会社。
その事だけが、オレの理性をどうにか保つ最後の砦。
しかし、そんな砦も、彼にかかれば紙切れ一枚も同然らしい。
「んんっ…」
肩を掴まれ、正面から向かい合ったかと思うと、御堂さんは躊躇なく唇を重ねてきた。
「んんー!」
辛うじて存在する理性の元、このかなり危険な状況をなんとか止めようと恋人のスーツの裾を引っ張ってみるが、彼にはこの程度の事は抵抗とすら取って貰えなかった。
ふと、ドアにはめ込まれた曇りガラスの向こうに、人影を見た気がした。
まずい。
御堂さんはこちらを向いているから、当然その事には気付いていない。
なんとか、人に気付かれる前にここから出なくては。
「は…た、たか、のりさん…。ひ、人が…人、が来ます…から…」
「誰も来ない…」
「だって…」
そしてオレは、信じられない光景を目の当たりにした。
ドアの向こうに見えていた人影が、こちらへ向かってきたかと思うと、そのまま音もなくドアをすり抜けてこの部屋に入ってきたのだ。
「ぅうわあ!!」
「克哉!?」
ドアをすり抜けオレ達の2,3メートル先で立ち止まったのは、青白く光って、明らかに実体がない少年だった。
「まさか、ゆ、幽霊…?本物…?」
オレの慌てぶりに、御堂さんも後ろを見遣る。
彼はしばらくの間、声も出さず、動きもしなかった。
御堂さんにも見えているのだろうか。
オレだけに見えているとしたら、彼には何と説明したら良いのだろう。
幸い、あの幽霊の少年も、いきなり襲ってはこなさそうだ。
オレが頭の中で色々と考えていると、徐に話し出す、目の前の恋人。
「悪いが…。
ここは18歳未満は立ち入り禁止だ」
………はい?
「ちょ、ちょっと孝典さん?
今、何の話を?」
「だから、あの少年にここから出て行くように言っている所だが?」
「え?少年って、あれ、幽霊ですよね…?」
オレの話は半分に、御堂さんは なおも続ける。
「大体、鍵を掛けてあっただろう?いくら子供といえど、そのくらいの配慮はして欲しいものだな」
「あ、あの〜、孝典さん」
「何だ?」
「相手はまだ子供だし、それにそもそも幽霊だし…」
「幽霊だろうが何だろうが、私の邪魔をするならば、それなりの覚悟を持って来るんだな」
男前です。
「それも出来ない内からのこのこ出てくるようでは、幽霊とやらもたかが底がしれている」
……ここまで来ると、幽霊に同情したくなってきた。
取り立てて何をされた訳でもないのにそこまで言ってしまうと、何だか少年の顔がさっきよりさらに悲しそうになっている気がする。
「た、孝典さん。もうその位で…」
「私はまだ…」
オレ達が軽く言い合いをしているうちに、その少年の霊は、いつの間にか姿を消していた。
そして、それ以降彼が現れることは無かったらしく、あれだけ社内を騒がせた噂も、今では誰一人話す人はいない。
それにしても、あの霊が消えた原因ってやっぱり…。
「克哉、そろそろ出掛けるぞ」
この人のせい、いや、おかげなんだろうな。
「はい、すぐ行きます」
御堂さんが待つ玄関へと小走りで向かうと、あたたかい笑顔が迎えてくれる。
オレは、この前の質問をもう一度彼にした。
「孝典さん。幽霊って、信じます?」
「そうだな。実際に見てしまったからな。
だが、今度もしまた出てくるのなら、ちゃんと空気を読んでからにしてほしいものだ」
「ぷっ。あははは!!」
「?何がおかしいんだ、克哉?」
「ふ…。いえ、そんな孝典さんも大好きです」
この人にかかれば、人も幽霊も、関係なく真っ向から勝負する相手となる。
真っ直ぐな人。
こんな人に愛されている自分は、世界一の幸せ者なんだろうな。
⇒あとがき
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