その言葉
12月31日。
街は、忙しく歩く人々とその間を通り抜ける寒風とが、我先にと競うように一年最後を駆けて行く。
今日はオレの誕生日だ。
そう言うと、聞いた人は決まって「忙しい時に生まれたんだね」と口を揃える。
オレだってそう思う。
社会人になってからは特に、特別感も無い日になってしまったし、祝われる年でもないし…と何となく口にした事だったのだけど、あの人にはそうではなかったみたいだ。
孝典さんと付き合って初めての誕生日には、今まで経験したことのないことばかりで驚きの連続だった。
高級ホテルのレストランでディナーの後は、そのまま最上階のスイートに宿泊なんて、小説の中だけの世界かと思っていた。
「今までは、君にとって特別ではなかったかもしれないが、今年からは私にとっても特別な日になるのだから」
そう言って笑った孝典さんの顔は一生忘れない。
「おめでとう」っていう言葉の威力を、初めてすごいと思った。
親や友達に言われる時とはまた違う感覚。
彼の口から紡がれる短い言葉がこんなにも幸せな気持ちで満たしてくれるなんて。
これからは、毎年こんな誕生日が来る。
それを約束してくれたあの人の言葉の重みと強さを噛み締めて、オレは家の玄関扉を開けた。
「おかえり、克哉。携帯を忘れていただろう」
「え、あれっ? すみません、何か急ぎの用でもありましたか?」
「いや、そういう訳じゃないが、何かあった時に心配だからな」
ガラステーブルの上に置いたままになっていた携帯電話に視線を移して、孝典さんはああ、と付け加える。
「何回か着信音が鳴っていたぞ」
「ありがとうございます」
ロック画面を見ると、メールが数件入っていた。
未読メールの最初の欄には本多の名前が表示されていて、件名には「おめでとう」とある。
『今年もいろいろあったな。克哉がいないキクチは何年経っても慣れないけど、お前が友達なのは変わらねぇからな。来年もよろしく!』
大学時代、忘年会兼誕生日パーティーと称して狭いアパートで飲み明かしたことが急に思い出され、懐かしさが込み上げてきた。
変わらない友人に胸を温かくしながら次のメールを開くと、これもまた件名には「お誕生日おめでとうございます!」と書かれていた。
送り主は藤田くんだ。
『直接言えないのが残念ですが、お誕生日おめでとうございます! 佐伯さんと一緒に仕事ができて毎日すごく楽しいです! これからもよろしくお願いします!
P.S. 野見山さんも、おめでとうって言ってましたよ! 佐伯さんの誕生日の話をしてたら、こっそり訊いてきたので言っちゃいました』
藤田くんが目の前で喋っている感じがして、思わず笑ってしまった。
最近は野見山さんとも上手くやれている…と自分では思っているから、ますます嬉しい。
『佐伯君、誕生日おめでとう。御堂は気難しい奴だけど、こうやって何年も仲睦まじい君達を見ていると、何も心配いらないね。
ちゃんとしたお祝いはまた改めてさせて貰うよ。御堂のチョイスに負けない店を見つけておくから。それでは、良いお年を』
四柳さんは、孝典さんの友人の中でも一番いろいろと話せる人だ。
何かとオレたちの事を気に掛けて、こういう細やかな気遣いをしてくれる所は本当に憧れる。
最後の未読メールは、普段まったく使用しないアドレスからだった。
『克哉へ
今日は誕生日ですね。おめでとう。便りが無いのは元気な証拠と言うけれど、たまには顔を見せに帰っておいで。お父さんも、久々に男三人で呑みたいと言っていました。身体に気を付けて、無理をせずに過ごしてください』
母の強さと父の優しさは、大人になってやっと気付いた。
オレを生んでくれて、育ててくれてありがとう。
あなたたちがいたから、今のオレがあって、こうして幸せを抱いて生きていられます。
胸が熱くなって喉の奥がツンとした。
「克哉?」
オレの様子がおかしかったのか、孝典さんは少し心配そうにオレの顔を覗き込んできた。
「孝典さん。オレ、幸せです」
「……。…ああ、私もだ。生まれてきてくれてありがとう、克哉」
12月31日になった瞬間にベッドの上で囁かれた言葉をもう一度、今度はキスと一緒に。
夜までにはまだまだ時間があるけど、こうなったら関係ない。
どちらが早いか、オレたちはもつれるようにしてベッドへと倒れ込んだ。
「ん…っ、孝典さん…っ」
奪い合うようなキスの応酬は、息をする暇もないほど続いた。
唇を噛まれたかと思うと、今度は綿菓子みたいな柔らかくて甘いくちづけになって思考が追いつかない。
毎日毎日、何年もこうして互いに唇を交わしているのに、この感覚にオレはいつもドキドキさせられる。
それに今日は━━
「今日は特別、君を甘やかしたい」
ぞくり、と電流が背中を流れた。
孝典さんの瞳が、唇が、手が、全身が艶めきを帯びた熱を放ってオレを包み込んだ。
まだ日も高いうちから、理性を吹っ飛ばしてこの官能に身を任せてもいいのだろうか。
微かに残った冷静な思考は、けれど砂漠に現れる蜃気楼と同じかもしれない。
そんなものは最初から存在してなくて、理性的でいたいという願望だけが空回りしていたのかも。
ぐるぐると巡る潜考も、今となってはどうでもよかった。
だってそんな事を考えたって、結局行きつく答えは一つだから。
「孝典さん…好きです…大好きです……」
「ああ、私も愛している」
こうして想いを口にすれば、必ず応えてくれる。
孝典さんが言葉で、態度で、全てを委ねろと言ってくれるから、オレは迷わずその胸に飛び込んで行けるんだ。
「あ…っ、た、かのり…さん…っ」
長い指が、ゆっくりとオレの中に入ってきた。
短い息を吐きながら何回も恋人の名前を呼んでいると、彼はそれに応えるようにキスを落とす。
髪から始まって、瞼、頬、唇はあえて外して首から鎖骨へ、胸と腹を通って、そして━━。
「やっ、あ! ああ、んん…っ! だ、め……孝典さ、ん…っ」
口の中の生温かさが、妙に強い刺激をもってオレを包む。
この舌はオレよりもずっとオレの事を知っているから、今さら抵抗なんて出来ない。
そんなことは解っているのに、オレの手は反射的に孝典さんの頭を掻き抱いていた。
勿論これは拒絶の意味じゃない。
ただ恥ずかしくて居た堪れなくて、できればこんな時は顔を見てほしくないからだ。
だって、見られたら……。
「克哉……」
「んぅ…ん……」
長いキスの後、孝典さんは少し意地悪な顔をした。
「いやらしい顔だ」
「うっ…それは孝典さんのせいですよ…」
「私の好きな貌だ」
クス、と笑って孝典さんはまた唇にキスをくれた。
「ふ…ぅっん……」
前からも後ろからも翻弄されて、濃密な空気を肌にピリピリと感じる。
大晦日はまだまだ続く。
除夜の鐘が鳴り始めるまでには、この煩悩が少しは晴れるのかな。
いや、晴れなくてもいい。
孝典さんとだったら、どんな所でも一緒に堕ちていける。
今はただ、この快楽に甘い幸せを感じて、大好きな人と一つになれる悦びを抱きしめた。
⇒あとがき
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