52000打目を踏んでくださった、夕月様への贈り物です。
大変お待たせ致しました。
少しでもお楽しみ頂ければ幸いです。




アンフェア


午前中の会議を終え、克哉は軽い足取りで廊下を歩いていた。
今回、一室で手掛けることになった新商品は、メインターゲットを二十〜三十代の男性に据えている。
一室の若い人材からも、コンセプト決定の段階で意欲的な意見が多く出され、話し合いにはいつも以上の熱が込められていた。
それは克哉も同じで、当然仕事にはいつも全力を注いでいるが、一室の企画としては珍しい顧客層へのアピールは如何様にして進めるべきか、考えることが山積みだがそれが一層楽しみでもある。
一回目の会議を終えたばかりの克哉の頭の中では、すでに次の具体案が目まぐるしく踊っていた。
そんな高揚気味の気分で一室に戻る道すがら、すれ違った女性社員の言葉が耳に入った途端、克哉は思わず歩みを止めてしまった。

「御堂部長、最近なんだか優しくなったよね」

「あ、わかる。雰囲気が柔らかくなったっていうか、話し掛けやすくなったよね」

「あたしこの前、段差でつまづいてそのまま部長にぶつかっちゃって」

「えっ。怒られなかったの?」

「あたしもそう思って、すっごく怖くてすぐに謝ったんだけど」

「うんうん」

「大丈夫か、って! ちょっとだけ笑って言ってくれたの!」

「ええ!? 何それ羨ましい!」

その容姿から、前々から女性人気はダントツであったが、その厳しい性格と言動ゆえに自ら近付いていく人間は少なかった。
それがここ最近で、かなり雰囲気が変わってきたのだという。
たまに見せる笑顔は女性のみならず、男性社員の間でも気受けの良さが評判となっているとかいないとか。
そんな会話を、悪いとは思いつつ一通り聞き耳を立ててしまった克哉は、先程とは打って変わってなぜかモヤモヤとした気分のまま一室のドアを開けていた。

「あ、佐伯さん! おかえりなさい」

藤田の元気な声に続いて、一室の他のメンバーからも迎えの言葉が掛けられる。

「会議、どうでした?」

「うん。順調に進んだよ。まだまだ荒削りな所もあるから、完璧にGOサインが出た訳じゃないけど、感触はすごく良かったと思う。このまま、今からちょっと話し合いしてもいいかな?」

数名がデスクに集まり、互いに意見を出し合う。
同輩や後輩の熱心さが伝わってくる度、克哉自身もこの企画は絶対に成功させたいと感じていた。

新年度を迎え、克哉のMGNでの立場はさらに確立されたものになっていた。
一室の業績は申し分なく伸び続け、室内の人間関係も良好だ。
元営業職の為せる業か、コミュニケーションの取り方もやはり上手く、相手が同性、異性に関わらず、豊富な話題は人の関心を呼び、いつの間にか相手の心を開かせているようだった。
商品企画部の主が認めた人物、といういきなりハードルの高いスタートを切った克哉だが、本人は難なく周りの人間を味方に付けた。
確実に力をつけている姿とは裏腹にどこまでも謙虚なその姿勢は、部内外問わず慕われるに十分な理由だった。

「佐伯さん、お昼どうします?」

ふと上がった声に、克哉は驚いて時計を見る。
手元の資料に熱中し過ぎて、時間の経過を忘れてしまっていたのだ。
自分だけならまだしも、他の者まで巻き込んではさすがに申し訳ないと、慌てて藤田達に話を合わせる。

「俺、今日は何にしようかな〜」

昼食のメニューに思いを馳せる藤田は、うんと一つ伸びをして克哉に向き直った。

「佐伯さんは何が食べたいですか?」

「オレは何でもいいよ。藤田くん達が食べたいもので」

「またそうやって遠慮する〜。たまには佐伯さんの好きなもの言ってくださいよ」

「ええ?っと・・・ん〜っと、じゃあ・・・蕎麦とか」

「蕎麦! いいですね〜」

わいわいと賑わい始める一室に、涼やかな風がふっと入り込んだ。

「賑やかだな」

聞き様によってはそっけなく聞こえるかもしれないが、彼の表情を見ればその考えも変わる。
ドアの前に立つその人は、上司の貌を携えてはいるが、今はいつもより少しだけ穏やかだった。
立っているだけで絵になる麗人の微笑みは、もちろん威力絶大だ。
近頃は特によく笑うようになったと、もっぱらの評判である。
以前は、相手が誰であろうと厳しい表情を変えることはなく、声も視線も、氷のようだった。
仕事に関しては人一倍厳しく、どんなに良い成果が上がっても慢心することのない姿勢は、尊敬の念を抱かせると同時に、近付き難い存在でもあった。
そんな御堂孝典という男が確実に変化しているということを、皆、口には出さないが、内心とても喜んでいる。
それは一室に止まった事ではなく、他部署からも格好の話題として囁かれ続けているのだ。
そう。先程、克哉が遭遇した場面のように。

「御堂部長も、ご一緒にいかがですか? 今日は佐伯さんのリクエストで蕎麦なんですよ」

清々しいほどの笑顔で、何の躊躇もなく声を上げたのは藤田だった。
女性陣は内心でガッツポーズをして藤田を褒め称えたが、男性陣の表情は心なしか緊張気味である。
いくら以前より取っ付き易くなったとはいえ、やはりそこは“御堂部長”。
いつ厳しい一言が飛んでくるかと思うと、藤田の様にあっけらかんと隣で蕎麦を啜るには、まだまだ勇気が足りないというものだ。
だがそんな悩ましい気持ちも、雪解けのような笑みによって簡単に瓦解してしまうから不思議である。

「良いのか? せっかくの休憩時間に上司が一緒では、君達も窮屈だろう」

「そんなことないですよ! むしろ、ご一緒にお願いします!」

もとより乗り気の女性たちに加え、男性側もすっかり歓迎ムードだ。
御堂がほころばせた笑顔は、その場をより一層和やかにしたが、ただ一人、一瞬。
ほんの一瞬だけ、月が陰る表情を忍ばせた者がいたことに、その時は誰も気付いてはいなかった。



「・・・・・・克哉。・・・克哉? 何か怒っているのか?」

「え? 怒ってませんよ、全然」

帰宅後、夕飯の準備をする克哉の傍らで、御堂はいつもの自信に満ち満ちた表情とは似ても似つかぬ貌をつくった。
それは最早、厳格な御堂部長の面影をどこにも残していない。
キヌサヤの筋を取る手つきを内心で褒めていた御堂は克哉の返事が本心からのものではないと、瞬時に悟っていた。
これだけ長く一緒にいるのだ。
彼が機嫌を損ねた時につくる表情を見分けるなど、明日の天気を予想するより容易い。

「だが、昼間から元気がない。私にそっけない」

「そ、そんな風に見えますか?」

今度は困り顔。
恐らく自分が関係していることで克哉をこんな顔にしているのに、つい責める口調になってしまい、御堂はバツの悪い顔になった。
お互いに気まずい表情のままソファで沈黙するが、先にそれを破ったのは一度大きく深呼吸をした克哉だった。

「・・・・・・孝典さん、最近変わりましたよね」

「?」

御堂には、克哉の言葉の意図がすぐに解らなかった。
この恋人は、たまに突拍子もない発言をする。
それに何度か度肝を抜かれたこともあるが、今日は特別、克哉の真意を掴みかねていた。
一見いつもと変わらない穏やかな表情を携えてはいるが、明らかにその瞳は何かを訴えている。
御堂は急かしたい気持ちをぐっと堪えて、克哉の胸中が吐露されるのを待った。
すると、克哉のうっすらと色付いた頬がぷうっと風船のように膨らみ、そのまま横へと向いてしまったのだ。
これには御堂もお手上げだった。
こんな表情も可愛いなどと、密かに堪能している場合ではない。

「克哉。私が君を怒らせてしまったのなら、まずその原因を教えてくれないか。恥ずかしい事だが、今回は心当たりが思い付かない。私の気付かない所で、君に不満や悲しい思いをさせていたのなら、すまなかった」

最近は殊に、仕事上でもプライベートでも、互いに充実していた確信はある。
しかし気付かぬ所で、愛しい人に辛い思いをさせている自覚は全くと言っていいほど無かった御堂にとって、もはや本人の口から回答を得るしか方法が思い浮かばなかった。
とりあえず謝っておけば良いという考えは、御堂自身最も嫌いな行為の一つだが、この際これしか方法がないのだから仕方ない。
痴話喧嘩における世の男性の言い分が、御堂にはこの時になって少しだけ分かる気がした。
無論、先ほど口にした言葉は本心からのものだ。
それは克哉にも伝わっているだろう。
その証拠に、克哉の頬の膨らみはだんだんと小さくなって、身体の向きもゆっくりと御堂の方へ向き直ってきた。
そして

「・・・ごめんなさい」

か細い声が届いた瞬間、御堂は何故かほっとした。
克哉がようやくこちらを向いてくれたことに、少しだけ肩の力が抜けるのを実感する。

「どうした?」

辛そうに歪む表情を見ていると、それ以上の言葉を掛けられなかった。
また一人で溜め込んで、吐き出す場所が分からずに苦しんでいるのが嫌でも分かる。
御堂の右手は言葉よりも先に、すっかり萎んでしまった克哉の頬を優しく撫で始めた。

「オレ、嫉妬・・・してたんです」

「・・・嫉妬?」

克哉の口から珍しい言葉も出たものだ。
彼が直接言葉として感情を表すことが少ないのは、これまでの付き合いからよく分かっているつもりだ。
御堂はまだ少し信じられない気持ちで訊き直した。

「・・・君が、誰かに嫉妬したのか?」

「はい・・・」

恥ずかしそうな、申し訳なさそうな表情で項垂れて、克哉はぽつりぽつりと溢した。

「今日、会社で人が話しているのを聞いてしまったんです。その・・・孝典さんが、他の人に優しくなった、って・・・」

「・・・・・」

「それで、あの、一室の皆も最近同じような事を言ってて、それに、今日も楽しそうにお昼・・・」

もごもごと口ごもる克哉とは対照的に、御堂は盛大に溜め息を吐いた。
克哉はその姿に一瞬肩をビクつかせるが、それを安心させるかのように御堂の両腕が克哉を優しく包み込んだ。
決して華奢ではない身体も、今は縮こまって不安いっぱいの子猫のようだ。

「よかった・・・」

御堂の、心の底から安堵した声は無意識に出たものだった。

「また知らない内に君を傷付けたんじゃないかと、心配だった。まさか、そんな事で嫉妬してくれているとは思わなかったな」

そう言って微笑んで見せたが、克哉の表情は晴れない。
寧ろさらに深く俯いてしまい、二人の視線は交わらない。
顔を上げろと名前を呼んでみるが、なかなかこちらを向いてくれない。
もう一度、今度は強く克哉の名を呼ぶと、頬も目も赤くして居た堪れないと訴える表情を覗かせた。

「だってオレ・・・。こんな・・・みっともない・・・。ごめんなさい、孝典さん。・・・オレだって、孝典さんが一室や他の部署の人と仲良く話したりご飯に行ったりするのは嬉しいんです。でも、・・・でも・・・」

「でも?」

「・・・・・・でも本当は、他の人とあんまり仲良くなり過ぎないでほしいです・・・!」

ぎゅっと瞑った瞼の奥は、御堂の姿を映さない。
互いに今、自分がどんな顔をしているかは分からないが、きっと何とも複雑そうな貌をしているのだろう。
最初は、克哉が何に対して憤っているのかが分からず少しイラつき、その次は自身の非に自己嫌悪。
鉄製のパレットに鉛を溶かしてぐるぐる掻き混ぜている気分の中、克哉の本心が聞けた瞬間には、それは一気にバラ色の絵の具へと変わった。
御堂はじわじわと込み上げてくる笑いを悟られないよう、いつもよりトーンダウンした声で克哉に語り掛けた。

「君が私の事で嫉妬しているのは、私にとって惚気にしか聞こえない。・・・君は怒るだろうがな。それにこれは、君の所為でもあるんだぞ?」

「オレのせい・・・?」

怪訝そうな表情で見つめる瞳には、やっと御堂の姿が映った。

「私が社内の人間に優しくなったと感じるなら、それは君の所為だ。・・・・・・君が、皆に優しいから・・・その・・・」

「オレが・・・優しい・・・?」

「そうだ。君は相手を選ばず、平等に親切に接する。それを見ていたら、無意識に伝染ってしまったんだ。私が優しいと言うのなら、それは君の影響だ」

「そんなことないです! 孝典さんは、もともと優しい人です!」

「いや。四柳たちにもよく言われるよ。佐伯君に会ってからの御堂は、まるで別人だ、と。だからこそ、社内でも噂になっているんだろう?」

「それは、やっと周りの人が気付くようになったっていうだけです。オレはもっとずっと前から知ってました。孝典さんは、本当はすごく優しくて思いやりのある人だって。でもちょっと不器用な所もあるから、伝わりにくい時もあるけど、オレはずっと前から知ってましたから。オレより先に孝典さんに出逢った人たちより、ずっと・・・!」

「克哉、落ち着け」

珍しく息巻く克哉に、さすがの御堂も驚きを隠せなかった。
論理的な口上ではなく、感情に任せたストレートな主張。
自分こそが誰よりも御堂を慕っているという、無意識の牽制。

「それだけ聞かされれば、こちらの毒気など一気に抜けてしまうな」

堪らず苦笑し、うっすらと赤くなる御堂は、克哉を抱き寄せて囁いた。

「私だって、君が社内で人気者になっていく度に心穏やかではなかった。これでお相子、と言いたい所だが、こんなにも熱烈な告白を私ばかりが貰っては、フェアじゃないな」

「え・・・?」

「今日は、君の望むままに愛してやる。どんな風にでも、な」

「ええ!?」

「ああ、それと。具体的にどれくらい前から私の事を優しいと思っていたのか、訊きたい。じっくりとな」

「そ、それは・・・」

こうして、結局フェアではない愛の攻防戦は、二人の笑顔が灯ると同時に始まりを迎えるのだ。




あとがき

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