酷暑が緩やかに和らぎ始めた9月中旬。
時折カーテンを揺らす風も、その温度を移ろわせて名を変える。
しかし爽涼と呼ぶにはまだ熱の残るアスファルトが、最後の足掻きと云わんばかりに照り返す、そんな季節の変わり目のとある日。
克哉は盛大な深呼吸をして、一人携帯電話を握りしめていた。
「―――あ。もしもし、母さん?」
電話の相手に朗らかな心持で久方ぶりの挨拶をした克哉は、しかし、これから控えている最も重要な話題の所為で心臓が跳ね上がりそうだった。
* * *
「おはようございます、孝典さん」
朝食の準備を終え、いつものように御堂を起こしにベッドへ腰掛ける。
「おはよう、克哉」
寝乱れた髪が彼の隙を作り出していた。
いつも完璧なスタイルで颯爽と歩く男は、今はただの御堂孝典だ。
「良い匂いがする」
「今日はちょっと頑張って、ガレットを作ってみたんです。温かい内にどうぞ」
「ありがとう」
御堂は上機嫌で半身を起こし、その唇で親愛の合図を送った。
「・・・エプロン姿はそそるな」
首に掛かった紐を人差し指で軽く引っ張ると、克哉は慌てて姿勢を正した。
「も、もうっ。まだ朝ですよ?」
「まだ、ということは、後でなら良いんだな?」
「そういうことじゃ・・・」
真っ赤になる克哉の額にキスをひとつ、御堂は微笑しながらシャツを羽織った。
「早く朝食にしよう、克哉」
「もう・・・」
オレは牛か、と、さっきから同じ反応しか出来ない自分にツッコミを入れて、克哉は御堂と共に寝室を後にした。
薄くパリパリと歯触りのいい生地の上に、ベーコンとチーズ、半熟の卵が乗ったガレットは、食材を替えればデザートにも応用できると説明すると、御堂は感心したように小さく声を上げた。
美味しいと目を見張る恋人の姿が堪らなく愛しくて、一人暮らしの時には絶対に感じることの出来なかった感覚に胸がほっこりする。
本当に美味しそうに食べてくれるなぁ、と嬉しさが込み上げる中、克哉は身じろぎした。
「孝典さん」
「何だ?」
「・・・孝典さんの、お誕生日なんですけど」
「ああ・・・。気にしなくてもいいんだぞ。私は、君と居られればそれで」
「オレの・・・!・・・オレの実家に、ご招待してもいいですか!?」
大きな宝石が零れ落ちるかと思った。
それほどまでに見開かれた御堂の両目は、純粋な驚き以外の色を纏っていなかった。
「・・・克哉・・・?」
本気で言っているのか。
口には出していないが、その眼がそう語っている。
克哉は自分の心音に負けないように声を出した。
「あの・・・こんなのが誕生日プレゼントっていうのもどうかな、とは思ったんです、けど、えと、本当は旅行とかプレゼントしたくて・・・。でも、海外なんて孝典さんの方が詳しいし、どうやったら孝典さんが一番喜んでくれるかなって・・・」
伝えたい事が纏まらず、上手く言葉を紡げない。
それでも御堂は真剣な表情で、克哉の一言一言を受け止めてくれている。
克哉は御堂の眼をまっすぐに見つめながら、この瞬間までにあった事を思い出していた。
重なる音
迫る恋人の誕生日。
それは克哉にとって、一年で一番大切な日である。
大好きな人に最高の一日をプレゼントしたい。
かけがえのない存在である彼の記念日に力を入れるなという方が無理な話だが、どうしたものかと悩むのもまた事実だった。
何をどんな風に贈れば喜んでもらえるだろう。
最近の克哉の頭の中は、そんな悩みでいっぱいだった。
二週間ほど前、四柳たちと食事を楽しんだ時には、克哉は既に浮かない顔で席に着いていた。
悩んでいます、と顔に貼り付けたままの表情を指摘したのは四柳だ。
御堂の旧友の中でも特に他人の機微に敏感な彼は、克哉の良き相談役でもあった。
元来の穏やかな性格に加え、医師という職業柄、人の表情や声を読み取るのはさすが、頼れる兄といった感じだ。
いつもの顔ぶれでグラスを傾けるのは、克哉にとってもすっかり恒例の楽しみとなった。
御堂の隣で慎ましく座る姿勢は崩さないものの、内河や田之倉の温もりの籠った揶揄に笑いを溢しながら応える様も自然である。
だから、克哉には自信があったのだ。
御堂はおろか、彼の友人たちにも、自分の悩みなどおくびにも出していないという自信が。
しかしそんなものも、明達なお兄さんにはお見通しだったようだ。
雰囲気に違わぬ物柔らかな声と、持ち前の優しい笑顔と共に、どうしたのと声を掛けられた。
それはちょうど御堂が席を外している時であり、四柳がタイミングを見計らってくれた事は克哉にもすぐに分かった。
君が悩みを抱えている時なんて、ほぼ100%御堂が絡んでいるとは四柳でなくともすぐに分かると笑ったのは、田之倉だ。
克哉の眼の前に座る彼は、空になった克哉のグラスにゆっくりとワインを注ぎながら大丈夫だよ、と付け加えた。
「御堂と内河は、当分帰ってこないから」
「御堂も心配してたからね」
二人の言葉で、克哉は事態を飲み込んだ。
どうやら自分の悩みの波長は、この場にいた全員のアンテナに引っ掛かっていたらしい。
ともすれば、克哉の事になると人一倍敏感な御堂など、ここに来るずっと以前から気付いていたかもしれない。
いや、恐らく気付いていた。
あえて何も訊かずにいてくれたのは、きっとそれが自分に関する事だと察したからだ。
一人で抱え込む克哉の性分を知っている御堂は、相談相手に自分ではなく四柳たちを選んだ。
恋人の友人たちは何も言わずに話を聞いてくれる姿勢だが、やはりこんな所でも御堂の方が一枚も二枚も上手なのだと思い知る。
被っていた虚勢の仮面は実は透明で、隠せていると思っていたのは自分だけだった。
そう感じて、恥ずかしさと申し訳なさで俯きかけた克哉に、朗らかな笑みが降りかかった。
「なに落ち込んでるの。佐伯君は、ちょっと考え過ぎな所があるからなぁ。もっと楽にして良いんだよ?」
「でも、田之倉さん達にまでご心配を・・・」
「実を言うと、佐伯君が何か悩んでるのかなって最初に感じたのは、四柳だけだったんだ」
田之倉の言葉に、四柳は微笑を浮かべるだけだ。
「俺も内河も、御堂と四柳が目配せしてるのを見て、何かあるのかなって思ったくらいだし」
古い付き合いだからこその雰囲気というか、視線を交わすだけで結構喋れるもんなんだよ、と笑う田之倉は、自分のグラスにもワインを注ぐ。
「まぁ、原因はほぼ確実に御堂だろうけど、どんな悩みか、僕達で良ければ訊かせてほしいな」
四柳は柔和な表情で克哉に微笑した。
その優しさに後押しされ、克哉も無意識のうちに詰めていた息を吐き出し、切り出した。
「実は・・・御堂さんの誕生日に何を贈るかが・・・決まらないんです」
力なく背を丸める克哉の表情は真剣そのものだが、それを耳と目で受け取った二人はなかなか返事をしない。
克哉がちらと正面と隣に視線を送ると、呆気に取られた顔が自分を見つめていた。
流石というか、やはりというか、いつも集まるこのメンバーは皆揃って容姿に花がある。
御堂とはまた違ったタイプの美しさや華やかさをそれぞれに持っていて、同性の自分から見てもカッコいい、と克哉は思う。
御堂に敵う人はいないけど、と心の中で注釈をつけることは忘れなかったが。
そんなイケメンが同じように呆けているのはある意味貴重な絵だが、何かおかしな事を言っただろうかと不安に駆られてしまう。
「あの・・・?」
克哉の声で我に返った二人は、今度は勢いよく笑い始めた。
その表情は、先程までの朗らかで柔らかいものではなく、心から楽しそうに、それはまるで子供のような綻び方をしている。
「ごめんごめん。そうか・・・。そういえば、今月は御堂の誕生日だったなぁ」
「笑ったりしてごめんね、佐伯君。御堂があまりに大事にされてるのを目の当りにしたら、やっぱりちょっと嫉妬しちゃったよ」
「え・・・えぇ!?」
火が灯ったように赤くなる克哉の頬。
まだ含み笑いをしている田之倉は、少し演技掛かった調子でワイングラスを持ち上げた。
「そんな可愛い悩みなら、このお兄さん達にも出る幕がありそうだな」
「御堂の誕生日プレゼントかぁ。佐伯君からのプレゼントなら、何でも喜びそうな気はするけど・・・・そうじゃないんだよね?」
「はい・・・。去年は本当に思いつかなくて、直接訊いてみたんですが、四柳さんが仰った事をそのまま言われてしまって・・・」
「ほう。いきなり惚気がきたぞ」
「田之倉。茶化さない」
内河が不在時の、自身の役割を理解している田之倉は絶好調だ。
「もうさ、佐伯君が自分の身体にリボンを巻き付けて、御堂の前に出て行ったらいいんじゃないかな」
「田之倉。ふざけない」
何の進展も見せない会話だが、克哉は楽しそうに笑った。
それは今日、店に入ってきてから今までで一番リラックスした表情なのでは、と四柳は思った。
「佐伯君の中では、これ、っていう候補とかはないの?」
「そう、ですね・・・。り、旅行とか・・・誘ってみたいなって・・・・・思ったりもしたんですが、御堂さんみたいに上手くエスコートする自信もなくて・・・」
「律儀だなぁ。そんなの、二人が楽しめたら細かい事なんて気にしなくていいんだよ」
田之倉の言葉は尤もだと思う。
まずは気持ちが大切で、それで御堂が楽しんでくれたら自分だって本望だ。
けれど、やっぱり一年に一度しかない大切な日。
失敗はしたくない。
心から喜んでほしい。
自己満足かもしれないけど、御堂の最も望む事を察して実行したい。
そんな逸る気持ちが己をがんじがらめにしている事も、本当は分かっているのだ。
「佐伯君。その直感は大切だと思うよ。御堂を旅行に誘いたいって最初に思ったのなら、頑張って誘ってみたらどうかな。あいつは、これ以上なく喜ぶと思うよ」
四柳の言葉で、克哉の中でモヤモヤと渦巻く波が、フッと凪いだ。
そこに穏やかで温かい風を吹き込んだのは田之倉の声だ。
「内河がいたら、マカオにでも行って来い、なんて言いそうだよな」
「二人にはカジノでパーッとするより、南の島とかでのんびりする方が似合ってると思うけど」
三日間だけなら、密度の濃い“のんびり”を堪能したことがあります。
心の中で呟いた克哉は、これ以上顔が赤くならないよう、この場だけは何としても仮面を被らなければと必死だった。
その後、計ったように席へ戻ってきた御堂と内河を交えて、次は何を開けようかと、いつも通りのワイン談義に花が咲いた。
田之倉の冗談に笑ったり、内河に振られた話題に赤面したりする克哉を見ながら、御堂は穏やかな表情でワインを口にしていた。
「ただいま〜」
「おかえり、克哉」
「孝典さんも、おかえりなさい」
いつもと同じバードキスが、帰宅してきた実感を生んでほっとする。
今日の食事会は克哉にとっては特に有意義だった分、家に帰って来ると全身の力が抜けるようにゆったりした気分になった。
「今日は楽しめたか?」
「はい! もちろんです。あのマグロとアボカドのサラダが、すごく美味しくて」
「そういえば君は、あればかり食べていたな」
「うっ・・・。あ! 今度、家でも作ってみましょうか」
「それは楽しみだ。佐伯シェフの腕は確かだからな」
話を微妙に逸らされた気もするが、それには突っ込まず御堂は歓談を続けた。
次の日も休みという安心感から、就寝前の身支度も緩慢になる。
シャワーもいつものように二人で浴びて、そのまま真っ直ぐベッドへ飛び込んだ後も談笑は続いた。
重なる心音は規則正しくリズムを刻む。
程好く回ったアルコールと優しい鼓動のせいで、克哉の意識は、すうっと沈んでいった。
* * *
翌日、御堂を起こさぬようにベッドを抜け出した克哉には、朝食の準備の前にどうしてもしておく事があった。
携帯電話を握り締めて、薄く光る画面を注視する。
意識せずとも鼓動がどんどん大きくなるのが分かって、手が震え始めた。
「大丈夫・・・」
自分を励ますように一言呟いて、コール音を響かせた。
『もしもし』
数度の呼び出し音の後に耳に届いた声は、久々に聞くけれど忘れる筈もない、慕わしいものだった。
「あ。もしもし、母さん? 久しぶり」
『久しぶり。元気にしてるの?』
たまに連絡すると、最初に尋ねられる事はいつも決まっている。
こんなありきたりな言葉が、どうしてこうも喉の奥を痛くするんだろう。
「元気だよ。母さん達も、変わりはない?」
近頃の朝晩の気温の変化を互いに注意し合って、克哉は一呼吸開いた会話を仕切り直した。
「母さん。今度、そっちに行こうと思うんだけど」
最近は、正月もあまり長居をしなくなったのにと、うっすら恨み言を吐かれるが、その声は嬉しそうだ。
恋人の一人でも連れて来いと、いつものように笑いながら言われるのも慣れた。
けれど、今日は。
今日ばかりは、今までのように笑って流す訳にはいかなかった。
「――うん。今度の連休で行こうと思う」
『あら、また急な話ね』
「ごめん。・・・・・その、それで・・・。今オレ・・・こ、恋人が・・・いるんだ、けど」
『なあに? 会わせてくれるの?』
「・・・・・そう。会ってほしいんだ。・・・・・・彼に」
いつも自信に満ちたあの人のように、淀みなくは喋れなかった。
流暢とは程遠い、けれど克哉にとっては精一杯の宣言だった。
電話向こうの母は今、どんな顔をしているのだろう。
一瞬降りた沈黙の間に、克哉の頭の中にはいろいろな光景が浮かぶ。
自分が幼い頃から、穏やかに笑っている事が多かった母。
怒ると怖いけど、ちょっとドジな所もあって、よく父を苦笑させていた。
大学に合格して上京する時、泣きながら笑って見送ってくれた。
その母は、今、どんな顔でオレを見ているんだろう。
自分から声を発することが出来ず、ただ母の反応を待つしかない克哉は、鼓膜が心音で激しく震える感覚を覚えた。
『――何が食べたい?』
「え・・・」
『夕飯。それとも、食べてから来るの?』
「あ、いや、えっと」
予想していなかった切り返しに、咄嗟に答えが出てこない。
自分から始めた真剣な話を、母の方が落ち着いて進めていたのでは、とんだお笑い種だ。
『――じゃあ、用意して待ってるから。気を付けていらっしゃい』
「あ・・・、ありがとう」
肩透かしを喰らったような、拍子抜けのような、張りつめていた糸が急に緩んだように、克哉の表情も幾分落ち着いたものになった。
『で。イケメンけ?』
「は? ・・・ちょ、母さん!」
物心ついた時から知っている、からからと笑う明るい笑顔。
電話越しの母の表情が目の前にある気がして、克哉も緩んだ頬のまま、声が少しだけ大きくなった。
「――それじゃ、何かあったらまた連絡するから。――うん、じゃあ」
時間にすれば、ものの数分。
その短い間の出来事が、克哉の世界をまた広げようとしている。
それは少なからず御堂にも影響を与えるだろう。
いや、寧ろ御堂にこそ大きな差響きをぶつけてしまう。
負担にならないか、重いと思われたらどうしよう。
携帯電話を握りしめた掌に熱が籠もっていく。
痛みを覚えるほどに力が入った指先は、はっきりと脈拍を伝えながら不安な感情を呼び起こそうとした。
「・・・違う。それじゃダメだ」
ふと開いた画面が目に飛び込む。
自らを奮い立たせる言葉は、一枚の画像ファイルがきっかけだった。
それは以前、短いバカンスを御堂と二人で楽しんだ時の写真だ。
幸せそうに笑う自分たちが、こちらを向いている。
それはまるで、克哉を応援しているかのような、悩みもがく背をそっと押してくれるかのような表情だった。
そうだ。
この笑顔を一生見ていたい、守りたいと思ったから、ここまで来たのではないのか。
ふ、と顔を上げた克哉の表情は、秋晴れも遠慮するような晴れやかさに変わっていた。
* * *
「オレを家族にしてくれた人なんだ、って、あなたを両親に紹介したいんです」
その言葉に迷いはなかった。
御堂のように、上手いプロポーズの言葉を持ち合わせてなんていない。
御堂へのプレゼントというよりは、自己満足の方が大きいのではないかと何度も自問した。
けれどこうして最後にこの答えを出せたのは、四柳たちの応援や母の包容力があったからだ。
そして何より、知ってほしかった。
自分は、御堂と一緒にいて、こんなにも幸せなのだと。
自分の人生は、彼なしではありえないのだと。
両親や友人たちに、今ある幸せな姿と、これからも続いていく幸せを見守ってくれとは言わないが、伝えさせてほしい。
あ。そっか。これって・・・
昨夜の田之倉に言われた事を思い出して、克哉はふと微笑した。
自分の大好きな人が、こんなにも自分を大切にしてくれているのだと、誰にでも言って回りたかった、これは結局――。
「ただの惚気だ」
ぽつりと口を衝いて出た自分の言葉に、克哉はなるほど納得した。
「オレは、孝典さんを自慢したいんです」
克哉の笑顔は、御堂の瞳にしっかりと焼き付く。
溢れる感情が視界をぼかして、胸の奥がぎゅうっと熱くなった。
気付いた時には腕は克哉を包み込み、その肩に顔を埋めて、御堂はやっと言葉を紡いだ。
「最高のプレゼントだ」
克哉の葛藤がどれほど大きかったか、想像するのは簡単だ。
いつかいつか、と夢に見ていたものを彼の口から聴くことが出来た。
それだけで御堂は、言いようのない歓びに身体を震わせた。
「孝典さん。オレの生まれた家に、一緒に行ってくれませんか?」
「よろこんで。ぜひお邪魔させてくれ」
熱くて早い鼓動が重なり合って、それは長い時間を共有していた。
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