キリ番を踏んでくださった、夕月様への捧げ物です。
大変お待たせしてしまい、申し訳ございません。
少しでもお楽しみ頂ければ幸いです。
Sunny in Rain
「あ。伸びてる」
風呂上りに、克哉はふと独り言を漏らした。
何気なく呟いたそれは、しかし耳聡い恋人にはしっかりと聴こえていたようで。
「克哉。こっちへ」
ゆっくりとした手招きを二回。
御堂が克哉を呼ぶ時の合図のひとつだ。
最近分かってきた事なのだが、あの合図の時は彼が自分を甘やかしたい時のサインらしい。
もっとも、それは恐らく御堂自身は無自覚なのだが。
それを知ってしまってからというもの、克哉の方も嬉しさと照れと緊張で、ロボットみたいな動きだと笑われることもしばしばだった。
要するに、お互い様だ。
「髪はちゃんと乾かしたか?」
「はい。大丈夫・・・わっ」
「じゃないな。まだ湿っている。ほら」
少し乱暴だけど優しく包み込んでくれる両手。
自分と同じくらいの大きさなのに、それよりもずっと大きくて逞しく見えるのはこんな時だ。
ふわふわした気持ちで大人しくなる克哉は、安心しきった子犬のように御堂にすべてを預けていく。
癖のない滑らかな髪はいつ触っても気持ちがいいから、つい時間を掛けてしまう、と御堂は苦笑するが、それも本人には気付かれていないだろう。
ほどなくしてラバトリーからドライヤーを持ってきて、仕上げに掛かった。
温風と手で撫でられ、一層きらきらと揺れる蜂蜜色は至高の手触りと艶やかさを生んで御堂を満足させた。
「よし。髪は終わりだ」
「ありがとうございます」
少しウトウトしていた克哉は、御堂の声でこちらの世界に引き戻された。
途端に恥ずかしくなったのか、頬を染めて座り直す。
「・・・すみません。寝ちゃいそうでした・・・」
「可愛いかったから役得だ。もう少し時間が掛かるから、寝ていても構わないぞ」
「え? 髪は綺麗になりましたが・・・」
自分の髪を触りながら問う克哉に、御堂は態で応えた。
恋人の右手をするりと取ると、自然な流れで身体を動かさせる。
克哉が見事にエスコートされた先は、御堂の膝の上だった。
最初は、されるがままだった克哉も流石にこの状況はおかしいぞ、と下ろしかけていた腰を上げてしまった。
「み、御堂さん! 何を始める気ですか?」
「人聞きの悪い事を言うな。君が爪が伸びてきたと言ったから、手入れをしようと思っただけだ」
しれっと丸め込むつもりだと心の中で頬を膨らませる克哉は、でも、と思い直す。
無言で自分の膝を叩く恋人に、すべてを委ねて甘えたい衝動は確かに存在する。
しかし御堂も同じように疲れているだろうし、それを癒すのは寧ろ自分の方じゃないかと、得意の悩み事が生まれ廻旋し始めた。
「甘える」、「甘やかす」、二つの項目しか書かれていないサイコロは克哉の中でころころと転がって、どちらの面を見せたいのか。
――そんなの、御堂さんの顔を見てたら分かるだろ?
自問に苦笑を返して、賽の目を覗くまでもなく克哉はゆっくりとそこに腰を下ろした。
「それでいい」
満足そうに、楽しげに微笑む顔を見て、この選択が間違っていなかった事にほっとした。
どこに仕舞っておいたのか、御堂はすでに爪ヤスリをテーブルの上に出している。
しかし肝心の物が無い、と克哉は首を傾げた。
「あれ? 御堂さん、爪切りは・・・」
「ん? これだけで充分だろう?」
互いに言いたい事が通じ合わず、一瞬しんとなった。
「・・・え? じゃあ、どうやって爪を切るんですか?」
「・・・え? これで整えるんだが?」
そしてまた沈黙が降りる。
「・・・ほえ〜。なんだか映画みたいですね」
「ふっ」
好奇心と名付けられたビー玉が、感動という光に照らされてキラキラ煌めいた。
御堂の手元と顔を交互に見つめる克哉の両目は、まさにそんな色をしていた。
そうか、自分は使わなくなって久しいが、やはり爪の手入れといえばまだ爪切の方がポピュラーであったか。
恋人の素直な反応に得心し、そしてその愛らしい姿に御堂は思わず吹き出した。
「ガラス製の爪ヤスリは、チェコが発祥なんだ。あそこはボヘミアンガラスが有名だろう。これもそうだが、普通のガラスよりも強度が高くて・・・・・まあ、うんちくはいいか」
自分の長所とも短所ともなる癖を自制して、御堂は克哉の手を取った。
まずは右手。
白く細く長い指がバランスよく伸びて、いつ見ても美しいが、決して苦労を知らない手ではない。
それにその手は、どんな時でも物ひとつ扱う動作が丁寧なのである。
それは当然、自分に対しても同じ、いやそれ以上という自信は御堂には大いにあった。
だからこそ今こうして、お返しの気持ちも含めて大切に扱いたいのだ。
ガラスの爪ヤスリはとてもよく削れる。
それが愛用する理由の一つだが、それは一つ間違えば危険にも繋がる条件になってしまう。
自分だけが使用していた時には考えもつかなかった事も、他人ましてやそれが最愛の人となれば、細心の注意は払って然りだ。
「じっとしていろよ」
「はい。・・・うぅ、でも、くすぐったい」
成人してまで人に爪を整えられる日が来るとは克哉も想定外だったが、御堂にとってはさらに想定外の出来事だ。
まさか自分が恋人の爪にヤスリを掛け、そしてそれを心から楽しんでいるなんて、少し前の自身が見たら「青天の霹靂だ」などと言って頭を抱え込んだかもしれない。
相反する二つの自分の顔を想像して、御堂は心の中で笑った。
「すごいですね。みるみる削れていく・・・」
今まで爪の手入れなどに興味を持ったことがない克哉にとっては、御堂の手つきだけで感嘆の溜め息が零れた。
普段、細かい作業をする所を見る機会が少ない分、こういった細やかな所作にもドキリとしてしまう。
洗練された手の動きは、いつも完璧にスーツを着こなし仕事に打ち込む御堂そのものだった。
しかし、それが怜悧な透明感だけを醸し出しているかというと、そうではない。
スマートな挙措の中にも、ちゃんと自分への愛情が温かく育まれているのを実感できるのだ。
ああ、だからか。
克哉は大きく頷いた。
「だからオレは幸せなんですね」
「!!」
妙に落ち着いた克哉の声。
それなのに、その表情は今にも泣き出しそうで、見ているこちらまで胸が締めつけられそうだった。
そのまま微笑まで刷かれたら、もう御堂に成す術はない。
まだ中指が終わった所でしかなかったが、そんな事はお構いなしに爪ヤスリはテーブルの上に座らされた。
やっと自由になった御堂の両手は、余すことなく克哉の身体を包み込んだ。
そつが無かった一連の動作からは予想できなかった御堂の行動。
一瞬驚きはしたものの、克哉は何が彼をそうさせたのかを理解して嬉しくなった。
きっと、さっきの自分の言葉が御堂の胸に届いたのだ。
声に出すつもりはなかった。
実際、心の中だけで唱えたつもりだったのに、それは無意識のうちに零れてしまっていた。
心のどこかでは、彼に伝えたいという想いがあったのかもしれない。
そんな風に考えて、克哉は微苦笑した。
「御堂さん・・・孝典さん・・・。今度、オレにもこのヤスリの使い方を教えてもらえませんか?」
「・・・それは必要ないな。これからも、君の爪は私が綺麗にしてやる」
そう。
優しくて、自分を愛していると言ってくれる御堂なら、きっとそう言うと思っていた。
克哉は少し自信のついた表情で微笑みながら、さらに御堂に寄り添って言った。
「孝典さんの爪は、オレがしたいんです。これからずっと・・・。だから、今度教えてください」
これには御堂も参ったと云わんばかりに破顔した。
「君はやはり、最高に愛しいな」
「オレも、同じこと考えてました」
ふふっと吹き出して、それはやがて大きな笑いに変わった。
照れもなく愛し愛されを語るのも魅力的だが、たまにはこんな日も悪くない。
互いの頬に口づけの雨が降る中で、太陽のような笑顔はいつまでも二人を輝かせていた。
⇒あとがき
⇒小説