ポップキャンディ
午後に入り、雲行きが怪しくなってきたある日。
克哉は、窓の外に広がる暗い空を一人見つめていた。
今日は恋人の御堂が三日ぶりに出張から帰ってくる日だ。
帰りはいつになるか分からないから、迎えに気を使わなくても良い―――
出発前に御堂から掛けられた言葉。
(孝典さんこそ、そんな風に気を使わなくても良いのに…)
ひとつ溜め息をついて、克哉は手持ち無沙汰な休日の午後を過ごしていた。
一通りの家事も終え、何もする気が起きなくなって、一度戻した視線をまた窓の方に向けると
「うわ、降ってきた」
糸のような細い雨が、徐々に街を覆っていく。
「孝典さん、傘持ってない…」
一瞬、色々な考えが頭に浮かぶ。
彼が何時の電車に乗るか分からない。
もしかしたら、別の方法で帰ってくるかもしれない。
でも……
「うん。よし、行こう」
一秒でも早くあなたに会いたい。
これに勝る理由なんてない。
2本の傘を手にし、克哉は足早にマンションを出た。
駅に着いた克哉は一通り周りを見渡し、恋人の姿が確認できないとなると、入り口の隅の方で静かに待つことにする。
色とりどりの傘が目の前を通り過ぎていく中、一人の老年の女性が傘も差さずに外へ出ようとしていた。
克哉は思わず女性に声を掛ける。
「あの…、失礼ですが、傘は…?」
「え?あ、ええ、雨が降るって知らなかったものだから。持ってないの」
「あ、じゃあこれ、良かったら使ってください」
考えるより先に、言葉と手が出ていた。
御堂が聞けばきっと、返す当てもない人間にお人好しすぎる、なんて言われるのだろうが。
「でも、あなたも誰かを待っているなら、傘は2本必要でしょう?
私は大丈夫よ。これくらいの雨なら。」
ありがとうと笑って立ち去ろうとするその人に、克哉は差し出した手をさらに前へやり、笑顔で答える。
「オレこそ、このくらいの雨なら濡れても全然構いません。傘は、オレの待ってる人が差せれば問題ないですし。だから、気にせず貰って下さい」
「本当にいいの?どうもありがとう」
「いいえ、お気になさらず」
恐縮しっ放しの女性に対して、克哉は始終笑顔で接した。
「こんな物しかなくて、本当に申し訳ないのだけれど…」
お礼にと克哉の掌に置かれたのは、可愛らしい包装紙に包まれた飴玉。
思わずほころぶ顔に、女性もほっとしたようで、また礼を述べて去って行った。
飴玉を眺めながら想い人を待っていると、ふと自分の名前を呼ばれた気がした。
いや、気のせいではない。
「克哉!」
大好きな声、大好きな顔、オレの大好きな孝典さん。
たった数日会わなかっただけで、こんなにも恋しくなるなんて思わなかった。
自分がどれだけ寂しかったかを改めて感じた克哉は、それ以上の喜びが今、目の前にあることが何よりも嬉しくて、自分もその愛しい名前を呼ぶ。
「孝典さん、お帰りなさい」
「迎えは気にするなと言ったのに」
そういう御堂の顔も、嬉しさが隠せずにほころんでいる。
「少しでも早くあなたに会いたくて。それにほら、雨が降ってきたから…」
「そうか。…ん?克哉、傘が1本しか見あたらないが…」
「あ、はい。実は…」
御堂と会うまでの先程のいきさつを話すと、予想通りの反応が返ってくる。
「はぁ…。まったく君は。お人好しにもほどがある」
思っていた通りの答えを聞いて、思わず笑いがこぼれてきた。
「どうした?」
「ふふ…いえ。孝典さんだなぁと思って」
「?」
「あ、でも大丈夫ですよ。その方に渡したのはオレの傘ですから。
孝典さんの分はここに。はい、どうぞ」
「君はどうするつもりだ?」
「オレは少しくらい濡れても平気です」
「君は……。はぁ…。君に駆け引きは通用しないな」
「え?」
「ほら、早くこっちに来い。濡れるぞ」
「え、ええ!?」
軽く腕を引っ張られ、克哉は危うく御堂の胸に寄り掛かりそうになった。
「私の傘に一緒に入るという考えはなかったのか?」
目は優しく笑っているのに、その声は少し意地悪く聴こえるのは気のせいだろうか。
「そ、そんな!ここ、街中だし、まだ人も多いし…」
指摘されて初めて気付いた御堂の考えに、克哉の顔はだんだん熱を帯びていく。
「ククッ。君は本当に飽きないな」
「もう、孝典さん、からかわないでください」
「フフッ。すまなかった。さぁ、そろそろ帰るか。
もちろん、二人でこの傘に入ってな」
「……はい。
あ!そうだ孝典さん、飴、食べます?」
「飴?どうしたんだ?」
「ふふっ。雨の日の贈り物です」
そう言った克哉の顔は、降りしきる雨の中でもキラキラと晴れ渡っていた。
⇒あとがき
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