〜先生×生徒 編〜


日が沈むのも、すっかり早くなったこの次期。
高校生活最後の年も、残りは数える程の月日しかなくなってしまった。
日に日に少なくなる、窓から夕日を望む時間に寂しさを覚えながら、佐伯克哉は、その日最後の仕事を終えようとしていた。
長い廊下を曲がり、階段を降りてすぐの所にある職員室。
目的地までは目と鼻の先なのに、寸前で克哉は足を止めてしまった。
見てはいけないものを見てしまったと、後悔してももう遅い。
視線の先には、この次期になるとよく見かける光景があった。

「――どうしても、ダメですか?私、本当に先生のこと・・・」

「君も、もうすぐ受験だろう。つまらない事に時間を割く余裕があるなら、勉強に廻しなさい」

「・・・っ、じゃあ、受験が終わったら、真剣に・・・」

「すまないが、君をそういう風に見る事は出来ない。――新しい生活が始まれば、それだけ視野は広がる。もっと君を理解してくれる人間は必ず現れるから、今は受験の事だけを考えろ。いいな?」

手で顔を覆う女子生徒と、肩が触れ合う程の距離で擦れ違った克哉は、胸に鉛が落ちてきた気分に苛まれた。
別に、自分は全く関係ないのだが、やはり実際に現場を見てしまうと、後味は悪い。
彼女も、あれだけ泣いていれば、最早自分になど気付いてもいないだろう。
それでも、完全に浮上しきれない気持ちを抱いて、目的の場所である入口の前に立った。
2回のノックの後、クラスと名前を述べて入室を果たす。
そこには案の定、件の人物が居た。
自席でプリントに目を通しているだけなのに、成る程、その姿は確かに目を引く。

当然だ。

自分だって、先程の女子生徒同様、例外ではないのだから。

「失礼します。御堂先生、日誌を持って来ました」

「ああ、ありがとう。そこに置いておいてくれ」

「はい。・・・あの、他に、する事はありますか?」

「今は特には・・・。いや。それなら、すまないが、そこの3種類のプリントを、1部ずつ取って纏めていってくれないか」

「分かりました」

快く引き受けた克哉は、早速作業に取り掛かる。
静かな室内に居るのは自分達だけだと思うと、途端に顔が熱くなるのを自覚した。
こんな感情は間違いだと分かっているのに、どうしても、目が追う先には彼がいる。
真剣に仕事をこなすその姿を、ただ見つめているだけで、こんなにも胸が掻き乱される様になったのは、いつの頃からだろう。
もう思い出す事も難しくなってしまったこの感情に、終止符を打つのは、それほど遠い未来ではない。
彼自身も、大学受験を目前にした身である。
こうして大義名分を掲げては、少しでも彼の傍に居たいという小さな望みをひた隠しにして、今日も他愛ない関係を大切にする。
それが、克哉にとって、最善にして最高の放課後の過ごし方だと、信じて疑わなかった。

「先生、これで全部です」

「助かった。・・・何か飲んで行くか?」

コーヒーか紅茶くらいしか無いが、と苦笑しながらポットへと向かう御堂を、克哉はただ黙って見ていた。

3年生に進級し、初めて彼が担任のクラスになった。
それからは、今まででは考えられない程、クラスの雑務を自ら引き受けてきた。
少しでも、あの人の傍に居たかったから。
そんな不純な動機で通いつめて、あと数ヶ月で一年になる。

『背筋を伸ばせ。――そう。ほら、さっきよりずっと良い』

あの時の些細な一言が、ここまで自分を変えるなんて思ってもみなかった。
彼の微かな笑顔が何よりも印象的で、これが一目惚れなんだと自覚した時の衝撃は、思い出すと思わず笑ってしまう。

目の前に出されたカップから、白い湯気が立ち上る。
何とも悩みもなくただユラユラと漂うそれに、一種の羨ましさを覚えた。

「どうした?飲まないのか?」

気付くと、漠然と馬鹿な事ばかりを考えていて、大切な人の話を半分に聴いてしまっていた。

「い、いえっ。頂きます」

進路の事で悩んでいるのかと、担任らしい質問をされ、短い返事で答えを告げる。
克哉が受験を決めている大学は特に難しい所でもないから、よほど下手を働かない限り大丈夫だと言ったのは、目の前の御堂でもあった。
克哉の好きな色の両眼が、心配そうに覗き込んでくるのを、笑顔で受け止める。

「本当に、何でもないですよ。ただ、この湯気が少し、羨ましくなっただけです」

「・・・君のそういう所。とても面白いと、いつも思う」

この時間がいつまでも続けば良いと思っているのは、オレだけ。








「・・・・・あった・・・。あった!よかった〜」

安堵の表情を浮かべ、やっと肩の荷が降りた事に、ほっとする克哉。
ポケットから携帯電話を取り出し、家で待つ親の番号を画面に表示させた所で、その指が止まった。
一番先に知らせたい人の顔が一度頭の中に浮かぶと、どうしても消えない。
祈る様に電話を握り締め、数分、ディスプレイの名前を見つめ続ける。
意を決して発信ボタンを押すと、すぐさま聞きなれたコール音が心臓に響いた。

『はい』

「あ、の・・・さ、佐伯、です」

『クスッ。知ってる』

「う、受かりました・・・!」

『おめでとう。だが・・・それも知っていた』 

「え?」

「おめでとう、佐伯君」

こんなに都合良く、会いたい人に会えるものだろうか。
声のする方へ振り返ると、携帯電話を片手に自分へと笑顔を見せる御堂がいた。
その姿はいつも通り落ち着いていて、けれど、いつもよりは少し早歩きで、こちらに向かってくる。
克哉は目を見開き、口をパクパクさせて、彼を見るばかりだ。

「どうして・・・」

「私はもう、君の担任ではないからな」

「それなら、尚更どうして・・・」

卒業式――。
涙を見せることなく別れられた筈だった。
みっともない姿を晒さずに、気丈に振舞えた筈だったのに。
今ここで彼に会ってしまっては、せっかく閉じ込めた想いが、いつ爆発するか分からない。
そんな克哉の葛藤を無視する様に、御堂は克哉との距離を更に縮ませた。

「君が大学に進学して、落ち着くまで待とうと思っていた」

何を、という克哉の問いは、触れられた手の熱さで声にならなかった。

「だが・・・。もう限界だ。卒業まで待てたのも、奇跡だというのに」

克哉には、未だ御堂の言葉の意味が理解できない。
だが御堂は、それでも構わないという様に続けた。

「私と、一緒に暮らさないか」

一瞬、自分に向けられた言葉なのか。
それさえ疑問に思ったくらいだった。

御堂が、自分と?
暮らす・・・。

「な、んで・・・」

かろうじて吐き出せた言葉は、息も絶え絶えといった印象だった。
克哉自身も、考えが纏まらぬ内に出した物だったから、それも幾分仕方はない。

「君が、私を想ってくれているのと同じ・・・いや。それ以上に、私が君の事を想っているから――では、理由にはならないか?」

「うそ・・・」

あまりの展開に付いて行けず、後退りを始めた克哉を、御堂はしかし逃がしはしなかった。

「返事は?」

「・・・オレ、きっと迷惑、たくさん掛けますよ」

「私の事を迷惑だと思わせるくらいには、束縛するつもりだから心配するな」

「・・・本当に、いいんですか?」

「君こそ、後悔しないのか?」

「後悔なら、もう済ませました」

「済ませた?」

「もっと早く、あなたに好きだって、伝えればよかったなって・・・」

「それは、私も同じだ。――克哉。君を、ずっと大切にする」

「せん・・・御堂さん」

越えられる筈のなかった壁を、予期せぬ所で簡単に越えてしまった。
それは、遠い遠い存在だと思っていたその人が、手を伸ばしてくれたから。
だからオレは、素直になれた。

「あなたが、大好きです」





⇒あとがき

⇒前編



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