イエスの手首、足首、脇腹に付いた、5つの傷痕。

それを、後に聖痕《スティグマ》と呼ぶのだが

《スティグマ》には、別の意味も存在する。





(囚われしは、その心)





本を読むのが、好きだ。

空想された物語を、何度も読み耽り、主人公に自分を重ねては、ハッピーエンドを迎え、心を温かさで満たす。

『そんなの、腹の足しにもならないだろ』

そんな風に双子の兄は言うが、好きな物は好きなのだから、これだけはしょうがない。

「・・・。ここに、居るのか?」

栗色の毛並みを持つ愛馬に尋ねれば、落ち着きを無くしたかの様に怯え始める。

真後ろには、薄暗い森。

目の前には、古びた小さな屋敷。

錆びた鉄の門扉に手を掛け、迷いながら扉を開く。

『馬を買い付けに行く?一頭じゃ足りないのか?』

『大きな荷物を運ぶのに、もう一頭必要だからな』

双子の兄が一昨日、馬を買い付けに出掛け、家に戻ったのは出掛ける時に引き連れた馬のみ。

何かがあったと、すぐに悟り馬を走らせ足跡を辿れば、ここらでは見かけない、煉瓦造りの屋敷を見付ける事となる。

「よいっしょ・・・っと」

錆びてあまり動かない門扉の隙間に、身体を滑り込ませ、小さな黒い瞳に笑いかけた。

「行ってきます。だから、先に帰ってていいよ」

柵越しに愛馬の身体を撫で、最後にポンッと胴を叩く。

鼻息を鳴らして、数歩後ろに下がるが、そのまま愛馬は頭を振るい佇んだ。

「まだ、居てくれるのかな?・・・じゃあ、佐伯が来たら、連れ帰ってくれ」

言葉が分かったのか、一度だけ頭を縦に振るうのを確認して、約束だよと言って背を向ける。

灯が無い窓辺。蔦が覆う外壁。

「お化けとか出たら、嫌だな・・・」

自分に取って心配すべき所が、幽霊なのは笑い話だ。


カミツレの形のドアノッカーを叩き、反応を待つが、やはり誰も出迎えには来ない。

早く脈打つ心臓を胸に玄関扉を勝手に開き、薄暗い屋敷の中に足を踏み入れる。

深い紅色の絨毯を足元にして、恐る恐る足を動かす。

正面に2階に上がる階段を見つけ、その階段の踊り場には破かれた絵画が飾られていた。

足音を吸収する絨毯を踏み締め、ユックリと階段を上り、渇いた絵の具に触れる。

めくれた部分を、手で直した瞬間

「・・・!?」

不意に風が頬を撫で振り向くと、玄関が大きな隙間を広げ、まるで今すぐ出て行けと自分に命じていた。

「勝手に・・・、開いた?・・・っ!」

それから逃れる様に、勢いよく階段を駆け登る。

玄関扉に隠れた場所で

「あれ?また逆効果みたいでしたね」

呑気な声が上がっているとは、露知らずに。


「さ、佐伯!!佐伯、どこだよ!?おば、おばけがっ!!」

何処でもいい、開いてる部屋にと気が焦り、ガチャガチャとドアノブを回す。

唯一、鍵が掛かっていない部屋に入ると、小さなベッドが月明かりに照らされていた。

「佐伯?」

人の形に膨らんだベッドへ、期待を込めて名を呼べば、うめき声が返される。

「佐伯!」

先程までの恐怖心が吹き飛び、慌てベッドに駆け寄ると、月明かりの下で異様な白が目立つ。

「怪我してる・・・。どうして・・・」

綺麗に巻かれた包帯に、安堵と疑問が混じり、不意に開かれた蒼い瞳に息を潜める。

「か・・つ・・・、や・・・か?」

その言葉と同時に、激しく扉が開かれ、無意識に体が驚きに揺れる。

振り向くなと理性が告げ、本能が警告音を鳴らす。

けれど、好奇心が自分を振り向かせた。


薄暗闇に、動く気配。

何か、あるいは誰かが、そこに居る。

「・・・」

均衡を保ちつつある距離感。

それを、自ら破りに向かった。

「あの・・・。あなたは?」

「・・・不法侵入した貴様が先に名乗らず、私が先に名を言うのか?」

「えっ?あ、すいません。オレは、克哉。コイツの弟です」

謝罪と共に名を伝え、汗で張り付く佐伯の髪を直す。

そして、一歩、薄暗闇に足を向けた。

「一つ、聞いてもいいですか?どうして、佐伯は怪我をしているんです?」

「・・・」

「そして、何故・・・」

白い包帯に、鈍く光る銀色の手枷。

「コイツを、捕らえているんだ?」

誰かを睨めば、暗闇が嘲笑う。



さぁ、物語を始めてみようか?



「生憎、不法侵入した挙げ句、家の主人に暴行を働く人間を赦す程、私の懐は大きくない」

「だからって!」

「ならば、お前が代わりに、罰を受けるか?」



彼と、彼の為に。



一瞬でも迷う事を恥じ、いいですよと宣言する。

誰かは喉の奥で笑い声を上げ、いいだろうと話す。

「だが、私を見ても同じ事が言えるのか?」

夜の冷えた空気が動き、月明かりの下に茶色の毛並みが現れた。

「あなたは・・・」

わざと鋭い歯を自分に見せ、獣の様な咆哮を上げる。

「・・・さぁ、どうする?」

物語が始まる第一声は、一つ。

「あなたは、野獣?」

人の姿に似た容姿。けれど獣の様な毛並みに、角と牙が生えている。

尖る爪が佐伯の頬を撫ぜるのに対し、唾を飲み込んで、野獣の隣に立った。

「男に二言はありません。オレが代わりますから、兄を解放して下さい」

野獣の瞳が細まり、佐伯の手枷を解く。

その手枷を自分の腕に付け、最後に佐伯の頭を、名残惜しげに撫でた。


窓越しに、佐伯が愛馬に縛り付けられるのを確認して、手枷の鎖を引っ張った。

長くあしらわれてはいるが、この長さでは部屋の外までは届かず、備え付けられたバスとトイレに行く位しか出来ない。

「・・・。これから、どうしよう・・・」

深い深い息と共にベッドへと腰掛ければ、急に部屋の明かりが点される。

暗さに慣れていた目を何度か擦り、次に見るは床に佇む兎。

所謂、ロップイヤーと言う種類であろう耳垂れ兎は、黒色と白色の毛並みが混ざり、後ろ脚だけで歩んで来る。

「あれ?逃げないのですか?そこに、鍵があるのに」

しかも執事服に身を包み、先程の野獣がベッド脇に置いた鍵を、両手で自分に手渡す。

小さな銀色の鍵は、簡単に手枷を取り外す事が可能だ。

しかし、それをしない自分に、つぶらな瞳がどうして?と問う。

「少し、気になる事が出来たので・・・」

「それは、何ですか?」

ちょこんと隣に座る兎。

小さな子供の様な大きさで、好奇心は自分と一緒で旺盛らしい。

「どうして・・・、治療したのかなって。佐伯が悪い事をしたのなら、傷付けたまま、外にほって置けばいいのに」

清潔なガーゼや包帯で、治療された形跡を残す佐伯の身体。

わざと怖がらせる振りをして、ご丁寧にも枷を解く鍵まで置いて行った野獣。

「本当は・・・、優しい人なのかなって・・・。だから、何となく、もうちょっと・・・、とか」

思ってみただけだと、考えを纏めながら呟けば、兎は柔和な表情をする。

「でしたら、僕は片桐稔です。君のお世話を、させて戴きますね」

「あ、はい。よろしくお願いします」

「それと・・・」

ベッドから眺める景色には、野獣がこちらを見詰める姿を描く。

「あの方は、御堂孝典さんです」

「御堂さん・・・」

「少し気難しい方ですが、根は優しい方なので・・・」

ぴょんっとベッドから飛び降り、兎の片桐さんは深々と頭を下げた。

「どうか、理解してあげて下さい」

物悲しい獣の咆哮が、外から上がる。

仄かな月明かりが、獣が持つ紫色の瞳を、美しく照らしながら。

それを見詰めて、小さな鍵をベッドサイドに置き直した。


本の読みすぎで、頭が可笑しくなったのだろうか。

見た目が恐ろしい野獣に、二足歩行する兎。

それを見ても恐怖心が沸かず、寧ろ一緒に居たいなと感じた。

朝日の温かさを肌で感じ、扉を背にした野獣は呆れた声を放つ。

「まだ居たのか」

「ふふっ。それ意味が分かりませんよ?それと、鍵・・・。忘れてました」

鍵を摘んで見せれば、複雑な顔をする野獣。

名を御堂と聞いていたので、渋々と差し出された手の平に小さな鍵を落として呟いた。

「御堂さん・・・」

続きの言葉を迷い、取り敢えず、これからよろしくと伝える。

すると、深まる一方の、彼の眉間の皴。

「・・・怖くないのか?」

「・・・?お化けなら怖いですが、あなたの事は別に普通ですよ。だって、意思疎通できますし」

大物だなと苦笑が聞こえ、好きにしろと、また鍵を返される。

片桐さんいわく、佐伯が怪我をしているのに無茶をするから、ベッドに縛り付けただけだと教えられた。

帰る為の足が無いから、部屋に留められていたのだが、オレが連れて来た馬に乗せれば、佐伯は無事に家路を辿るだろう。

「朝ごはんを、お持ちしましたよ。おや?ちょうど、良かった。御堂さんも、こちらで召し上がりますか?」

控え目なノック音と一緒に、いい匂いが香り、円卓に食事が並ぶ。

ただ、私はと言う言葉を遮り、自分の言葉を放つと

「一緒に、どうですか?一人だと、美味しくないですから」

「・・・。いや、私は一人でいい」

寂しげな、その背を見送る事となる。


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