幸福の深淵



「これで、全部揃ったかな」

メモ用紙を片手に、買い物袋を提げて歩く克哉。
その瞳は、いつにも増して輝いていて、何の変哲も無い買い物さえ楽しんでいる様だ。
そんな姿から、彼が今日という日を誰よりも大切にしたいと考えているのが、一目で見て取れる。

9月29日。

今日は、恋人である御堂の誕生日だ。
克哉はこの日の為に、食事は何を作るか、プレゼントは何を買うか、悩みに悩んでいた。
一ヶ月以上もそんな事ばかり考えていたと知れれば、恋人には呆れられるだろうが。
けれど、そんな毎日が楽しくてしょうがないと思うのも、それが他ならない大切な恋人の記念日だからだろう。

粗方の買い物が終わった所で、克哉は、ある店の前で立ち止まった。
最後に来ようと決めていた店。
逸る気持ちを抑えながら、ゆっくりと扉を開いた。

店内へ入ると、奥から、品の良い男性店員が笑顔を見せる。

「何かお探しですか?宜しければ、お手伝い致しますが」

慇懃に問われ、克哉も自然と顔が緩んだ。
まるで、ここでの買い物を最も楽しみにしていたと、伝える様に。

「ありがとうございます。実は、買う物は、もう決めてあるんです」

そう言うと、二言三言交わして、すぐに店員は店の奥へと下がって行った。
店内は克哉しかおらず、落ち着いた照明が、静かで心地良い空間を創り出している。

程なくして戻って来た店員の手には、克哉の頼んだ物が大切に支えられていた。
それを確認し、会計を済ませれば、これで全ての準備が整う。
手に提げた袋をもう一度見つめ、温かい気持ちで店を後にした。



「おかえりなさい、孝典さん!」

今か今かと待ちわびた、恋人の帰宅。
克哉は、鞄とジャケットを受け取りながら、出張から帰ってきた御堂を労った。
この忙しい時期に、夜とは言えど誕生日に一緒にいられるだけで、ありがたいと思ってしまう。

ネクタイを緩めながらテーブルへ視線を向けた御堂は、自分を祝う為に用意された数々の料理に、思わず感嘆の声を上げた。

「すごいな。皆、君が作ったのか?」

「はい。簡単な物しかないんですけど、今日はやっぱり、全部自分で作りたかったから」

褒められれば必ず、薄く頬を染め、照れた微笑みを見せる克哉。
特に御堂の前ではそれが顕著で、御堂はそんな彼をまた、可愛いと思ってしまう。
彼と過ごす誕生日はこれが初めてではないが、毎年必ずこの様に自分への想いを形として受け取る度に、幸せが胸を満たした。


満足な食事を終えた二人がソファで寛いでいると、克哉が徐に席を立つ。
少しして戻ってきた彼の手には、この日最後に入った店で受け取った紙袋が、大切そうに提げられていた。
照れながらも、その両手を恋人に差し出す。
御堂も敢えて中身は訊かず、微笑みながら礼を言い、静かにそれを受け取った。

「これは・・・」

形からして大体の予想はついていたが、包装紙から覗かせた顔に、御堂は息を呑んだ。

「シャトー・ラフィット・ロートシルト・・・」

隣に座り直す恋人の顔と、手元のワインを交互に見つめる御堂の顔は、純粋な驚きの色を纏っていた。

今度は逆に、その反応を予想していたかの様に、克哉が口を開く。

「オレが、あなたに初めてプレゼントしたワインです」

それは、まだ二人が今の関係になる、ずっと前。
プロジェクト上の問題を解決してくれたお礼にと、手渡ししたワイン。
あの時、初めて見せた御堂の顔が、忘れられなかった。
自分ではなく、飽くまでも、その嗜好品へと注がれた視線だが、克哉の心はすでにそれに囚われていた。

「あの時、初めて『御堂さん』に褒められた気がしたんです。だから、嬉しくて・・・」

「そんな事はない。私はその前から、君の能力は認めていた」

克哉の言葉が最後まで紡がれるのを待たず、御堂はそれを否定した。
「あの時」の話は、互いに滅多に語ることがなかった分、敢えてこの日に克哉がプレゼントとしてこの品を選んだ事に、御堂は少なからず動揺していた。
彼に、恨み言を言うつもりが無いであろう事は、重々承知している。
だがそれでも、過去の出来事を思い出さずにはいられなかった。

段々と険しくなっていく御堂の表情を見て、克哉は優しく口を開く。

「孝典さん。そんな顔しないでください。オレは、あなたに笑ってほしくて、これを選んだんです」

「克哉・・・」

「初めて褒められた気がしたっていうのは、本当です。初めて、あんな風に笑うあなたの顔を見て、何だかこう・・・」

「見惚れたか?」

「・・・もう!茶化さないでください」

恋人が少しずつ調子を取り戻してきた事に安堵しつつ、克哉は言葉を続ける。

「それまで知らなかった孝典さんの顔を見る事が出来たのも、このワインのお陰だと思うし、これがなければ、きっとあなたをもっと遠くに感じていたと思うんです。それこそ、オレには手の届き様のないくらい、遠くに。・・・だから」

ワインを持つ御堂の手に、克哉の両手が重なる。
近付く距離に、今は何の隔たりも無い。

「これは、とても幸せな、思い出の品なんです。オレにとっても、あなたにとっても」

温かく微笑む顔が、今の想いに、一遍の偽りも無い事を語っている。

どうして君は、そんなにも強く、そんなにも純粋に、私を想ってくれるのだろう。

今さら訊いた所で、返ってくる答えは決まっているのだろうな。

そんな事を考えながら、いつまで経っても敵わない愛しい人に、御堂は口づけで伝えた。

自分も、全く同じ想いを抱いて、ここまで来たのだと。

「ありがとう、克哉。君のその言葉が、一番のプレゼントだ」

自分の想いが伝わり、そしてそれを御堂が受け止めてくれた事に、克哉は胸を熱くした。
自然と潤む眼がいつも以上に扇情的なのを、自覚していないのは本人だけだ。
見上げられたその双眸に自分を映し、御堂は、もうひとつだけ我侭を口にする。
勿論、断られるとは微塵も考えていなかった。

「これから、飲まないか?」

「え?今からですか?もう結構遅い時間ですけど・・・」

「明日も休みだ。少し付き合え」

「・・・。はい。じゃあ、グラスを用意しますね」

思わず零れた苦笑に、楽しさと嬉しさが滲む。
テーブルに置かれたペアグラスに、深紅のワインが注がれれば、小さな乾杯の合図が笑顔を灯した。

「あ。何か、軽く作りましょうか」

可愛い我侭に付き合うべく克哉がソファから腰を上げようとした瞬間、そこに腕を回され、立つことは失敗に終わった。
その上、促されるまま腰を浮かせば、次に腰を下ろした場所は、御堂の膝の上。
慌て立ち上がろうとするも、当然の如く、それは無言で却下された。

「肴は要らない。それより・・・」

更に縮まる距離に、克哉の心拍数が跳ね上がる。
首筋に熱い息が掛かったと思えば、その唇は、耳に触れそうな近さで甘く囁いた。

「君に飲ませて欲しい」

一瞬の沈黙の後、その言葉の意味を理解した瞬間、これ以上は無いというほど克哉の顔は朱に染まる。
そんな恋人の顔を愉しげに横目で見つつ、御堂は腰に回した方とは逆の手で、テーブルからグラスを取った。
ガラスの中を揺蕩う、紅色の誘惑。
二つの視線が違う色を灯しながら、そこに注がれる。
恥ずかしそうに見つめてはいるが、そこに恋人の抵抗の意思が無いという事は、御堂自身が一番分かっていた。
だから、ここでダメ押しの一言。

「・・・今日は、私の誕生日を祝ってくれるんだろう?」

案の定、言葉に詰まるのは、観念したと表情で訴える克哉。
それを見た御堂は、上機嫌で恋人の口元までグラスを運ぶ。
薄く開いた唇に質の良いガラスが当たり、御堂が傾けたグラスから、克哉の口腔内へとワインが流れた。

「ん・・・」

一口分を口に含ませた所で、グラスをテーブルに戻し、互いに見つめ合う。
御堂は微笑むだけで、次の行動を起こそうとはしない。
少し焦った克哉はしかし、当然、喋ることが出来ずに、一つ身じろぎをした。

自分を祝ってくれると言った恋人が、次にどうするか。
それを眺める事を、御堂は愉しんでいる。

克哉にもそれは分かっていたから、両腕をゆっくりと、御堂の肩に回した。
今日は、この人の望むままにしてあげたい。
大抵いつも、結局は御堂の思い通りに事が進んでいるのだが、という自答には、この際目を瞑ろう。

髪に優しく触れ、梳く様に撫でれば、御堂は目を細め、先程よりも腰を支える手に力が込められた。
互いの視線が絡み合い、鼻先が触れ合う。
克哉は、いつもよりもずっと慎重に、その唇を恋人のそれと重ねた。
自分の口を伝って、相手の口内に液体が流れていくのを実感し、胸が熱くなる。
一口分のワインが全て御堂へと渡り、それが嚥下されるのを、克哉はじっと見ていた。

「おいしいですか・・・?」

「もちろん」

「・・・良かった」

ほっとした様に照れる顔が可愛くて、抱きしめる腕が強くなる。
身体の密着度が増し、一度の口づけでは全然足りないと、どちらからとも無くまた唇が重なり合った。
呼吸も儘ならないほど、何度も何度もキスを繰り返し、それは次第に深くなる。
時には瞼に、時には頬に、首筋や鎖骨にも口づけが落とされた。
グラスの中の色も遠慮する程の紅い花が、克哉の白い肌に咲いていく。
そしてその熱は、再び互いの唇へと引き寄せられた。

「ん・・・、孝典さん・・・。ワイン、もう、良いんですか・・・?」

「・・・・・先に、君にする」

「もう・・・」

克哉は、柔らかな苦笑を浮かべ、自分の胸に埋まる恋人の頭を大事そうに撫でた。
熱を帯びた身体に、また新たな熱が生まれ、室内には甘い声が響く。

ソファで仰向けになった恋人の真っ赤な顔を見ながら、御堂は幸せを噛み締めていた。
うっすらと涙を浮かべて微笑む克哉が放つ、あまりに普通で、けれど、あまりに甘く胸に広がる言葉。

「孝典さん。お誕生日、おめでとうございます。これからも一生、あなたの誕生日は、オレが一番にお祝いしたい・・・」

「・・・最上の告白だな」

底知れない熱情が二人を包み、纏う空気の密度が上がっていく。

重ねた手に指を絡め、深く口づけを交わした先は、幸福の深淵。





⇒あとがき

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