――パパ!ママ!はやく!

 少年はいち早く玄関を飛び出し、待ちきれないとでもいうように車庫のあたりを跳んだり跳ねたりしている。

――こら、帽子を忘れてるわ。

 微笑みながら続く母親は少年を追いかけしゃがみこんで、その柔らかな髪を包み込むように帽子をかぶせてやる。無邪気に喜ぶ息子の頭を優しく撫でながら、二人で父親を呼ぶ。

――はは、急かすなよ。

 呑気な父親はまだ靴を履いていた。鼻唄を歌いながらドアの鍵を閉め、玄関の鉢植えの後ろにこっそり隠す。こらっ。咎める妻の声に、誰も盗みやしないさ、と肩を竦めて見せた。

――パパ、僕がやる!

 なんでもやりたい盛りの少年は、父親が内ポケットから出した車の鍵に興味津々であった。
破願した父親は少年を抱き抱え、小さな手に鍵を握らせる。

――ほら、ここを押すんだ。こらこら、そっちは違うって…





 あれはいつだったろうか。初夏か、もう少し先な気もする。暑かったか、そう聞かれるとよく覚えていない。でも寒くはなかった。父親の派手なアロハシャツがいやに記憶に残っている、そんな夏の日だった。これといって変わったこともなく、いわゆる"家族らしく"海に出かける、なんていう実にありふれた日だった。 それでも、たぶん、たぶん今までの生きてきた中で、一番幸せな日だった。
 母の匂いも、父の手のひらも、磯の香りも、魚のぬるぬるも、蟹の甲羅も、ずっとずっと続けばいいと思っていた。ずっとずっと、続くと思っていた。
 だけどそれは、その日の夜で終わってしまった。




――不運な子だね

 家族と共に逝くこともできず、ただひとり生き残った少年をそう称したのは誰だったろうか。
 高い女の声だったような、いや若い男だったかもしれない。

――見出しはこれで決まりね
――これはいいネタになるぞ

 カメラのぴかぴか眩しい。たくさんの知らないひとたち。
 あちこちで聞こえる声。救急車のサイレン。

助けて、怖い、
パパ、ママ、
助けて、どこにいるの、

 ああでも、本当はとっくに気づいていた。
 パパとママは、





「ジン」

 暖かな手が頬に触れ、はっと、意識が引き戻される。
 不思議なことに目の前にはバン君がいて、自分は見慣れないシーツの上にいる。ぎしり、音を立てて軋むその小さなベッドの上で、今バン君のお家にお邪魔していること、せっかくだし泊っていけと勧める彼の笑顔、また、睡眠にあたってバン君のベッドの半分のスペースを与えられたことを、ぼんやりと追って思い出した。 数秒の沈黙の間に暗闇に慣れた目は、やがてバン君の顔を鮮明にうつし出したが、しかし、目の前の彼はなぜかおろおろとした様子で、眉をハの字にさせている。バン君、そう呼びかけようと口を開くよりほんの少し先に、彼は口を開いた。

「ジン、なんで泣いてるの、」

 そう言うと、バンはあっけにとられているジンを、力強く抱き締め、引き寄せた。
 少しだけ、痛い。

「そうか、僕は泣いているんだね」

 それはかさついた喉にひっかかり、上手く声に出すことができなかったが、彼にはちゃんと届いたらしい。肩口に埋めらていた顔を少しこちらに向けて、ぱちぱち、目を瞬かせている。

「ジン寝ぼけてる?」
「…そうかもしれない」
「ジンは泣いてるよ」
「そう…?」
「そうだよ。はじめて見た、だから、びっくりして」
「僕も、泣くのは久しぶりだ」

 お互い何を言っていいかわからないような状態で、果たして的外れな会話は終了した。カチカチという時計の針だけが、ふたりを繋いでいる。 何か言おうと口を開いては閉じ、また開いては閉じ、それをお互い数度繰り返した。
何度目か合った辺りで、ゆっくりと声に出してみる。

「夢をみたんだ」

 その声はすんなりと出た。

「夢を?」
「うん」
「そっか」
「うん」
「怖い夢?」
「いや…」

 怖くないというわけではない。ただ怖いという一言で表せるものでもない。表現できるいい言葉が見つからないのだ。なら、どうすれば。ああ、この際、言ったって構わないだろう。


「あの日の、」
バン君と目を合わせる。綺麗な青だ。
「父と母が亡くなった日の夢だよ」
バン君が、息を吸い込む音が響いた。
「バン君、」

返事はない。

「ちょっとだけ、ちょっとだけでいいんだ。僕の話を、聞いてくれるかな」




――その日から僕は「不運な子」になった。

 だって、そうだ。その時はたまたま、運命の巡り合わせが悪かっただけなんだ。そこに居合わせて犠牲になった人々も不運。その日、そこには両親を亡くした僕がいたように、父と母を泣きながら探す少年の姿も、妻と娘を亡くして項垂れる男の姿もあったんだろう。

 不運。不運だ。みんな、不運だ。
 きっと、生きるか死ぬかなんて、運がよかったか悪かったか、そんなものだと思う。

 でも、生き残った人間なら、
 あの日、生き残った人間なら誰だって、
 どうしたって、考えてしまうだろう。

 雨が降る度に、海を見る度に、夜になる度に、ひとりにされる度に。


「あの日、出掛けなければ」
「あの日、少しでも早く帰路についていれば」
「あの日、」「あの日」って。君は馬鹿らしいと思うかもしれないけれど。

だって僕は、あの日、あの日に

「あの日、海に行きたいなんてお願いをしたのは」
「あの日、まだ帰りたくないなんてわがままを言ったのは」
「あの日、両親を、死ぬ運命に追いやったのは」

 本当は、とっくの昔に、気付いているんだ。


 ――。




「考えすぎたよ、ジン」
「…そうかな」
「そうだよ、疲れてるんだよ」
「疲れてるのか」
「そうだよ、ジン、ちょっと鈍感だから」
「そうだね」
「そうだよ」
「バン君」
「なに?」
「ごめん」
「……なんで?」
「……なんでも」


――ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい、

 そこから先は、嗚咽に隠れて聞こえなくなった。たまらなくなってバンはまた、ジンの身体を引き寄せる。今度は彼も背のあたりに手をまわしてきた。ジンの柔らかな髪からは、磯の香りなんてしなかった。

 カチカチという音が聞こえる。
 きっと、もうすぐ夜明けだ。






2011/12/11
(夢の話)



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