きしきし、とも、きゅうきゅう、ともつかないような音を立てながら、恐る恐る歩みを進める。その様子を、数歩離れた所から見守っている。しとしと降り続ける粉砂糖のような雪は、数分も経てば斑模様の染みとなって、彼の肌触りの良さそうなコートを十分に濡らしてしまうことだろう。もちろん自分がかぶっている帽子のてっぺんまで。
 かといってそれを理由に急かすことなど、今の自分にはできないように思えた。そろそろ行こう、だとか、もう帰ろう、だとか。……風邪をひくよ、だとか、選ぶ言葉はたくさんあるはずなのに。

 初詣の帰り、わざわざ家の前まで送ってくれた彼を、引き止めたのは自分の方だ。「もう少し、一緒にいられないかな」。咄嗟に出てきた一言に、無言で頷いてくれたのは彼の方。時計を見れば16時半。遊び盛りの子供たちに容赦の無い日の暮れ方は、改めて冬の到来を告げていた。先程まで賑わっていたはずの公園は、気付けば人影もない。もうすぐ、家の前にいるなんて知らない母親から、電話かメールが来るだろう。
 悪戯に吐き出す眼前の白い息から視線を移せば、彼はいつの間にか随分と先に進んでしまっていた。時々引きずったような、不揃いな足跡を残しながら。いつもはクールに靴音なんか立てて、ポケットに手を突っ込んだりして。そんな彼が、地面そのものに足を取られているなんて、なぜだかとても不釣り合いで不格好だ。

 くす くす

 湿気を纏った靄と共に吐き出されたそれは、どうやら彼の耳まで届いたらしい。ネイビーのマフラーをふわりと翻しながら、振り向く。その切れ長の瞳と、目があった。

「ジンは雪、はじめて?」

 冷たい空気を一思いに吸い込んで、彼が数分かけて歩いた距離を、ものの数歩で走りきって見せる。隣に並んで上目づかいに顔を見上げれば、びっくり、顔に書いてあるみたいに目を丸く開いて、なんだかジン、猫みたい。
 ……とは口に出さずに。
 見上げるその整った顔に意識を集中すれば、ジンは困ったように目を伏せた。
「……別に、初めてではない。ただ、」
「ただ?」
「あまり、歩いたことがない、だけで」
 尻すぼみになった声を咳払いで濁し、暫しの間らしくもなく口籠ってから、ジンは耐えきれなくなったのか、目も合わせずにずんずん歩みを進め始めた。その後に、数歩遅れて、続く。
「今年は多い方だよ」
「何が?」
「雪」
「そうかい」
「俺、あんまり、雪とか、詳しくないんだけどさ」
「ああ」
「冬用の靴じゃないなら、気を付けたほうが」

 ずるっ どてっ

「……いいかも、しれないな」
 降ったばかりの雪が砂煙のように立ちのぼったせいで、ジンの姿が霞んで見えなくなる。目を細めてみれば、案の定尻もちをついたらしい。腰をさすり、無理やり立ち上がろうとする彼を慌てて制しながら、手を差し伸べる。
「ごめん、最初に言わなくて」
「……いや、僕の不注意だ」
「でも」
「いいから」
 プライドの高いジンのことだ、人前で転ぶなんて以ての外だろう。ほんの少しの興味心から、マフラーで顔の半分を覆ったジンを覗きこめば、早く手を引け、という具合に手に力を入れられた。覗く耳が赤いのを指摘しようものなら、気絶しちゃうんじゃないかな。……なんて思いながら手に力を入れる。

「あっ」
「どうした?」
「言い忘れてたんだけど」
「ああ」
「俺もさ、冬用の靴じゃないんだよね」



「……え?」
 ジンの微かな疑問符が先か、俺の素っ頓狂な声が先か。通年通して履ける底の平たい靴が、つるつるに凍った地面に敵う、はずもなく。体制を崩したバンは、ジンに覆いかぶさる形で、積りたての雪に沈むことになった。

「……ぃ、てて」
「ん、……」

 すぐ下から聞こえるくぐもった声に、慌てて身体を起こす。下敷きになったジンを、見る。目が、合う。

「ごっごめん、ジン、怪我とか」
「ふ、」
「え?」
「く、ひ、」
「なっ」
「ははっ」
「なんだよー!」

 お腹を押さえながら、からからと子どものように笑う、こんなジン初めて見た。
 雪に気を取られてみたり、目を丸く見開いたり、顔を真っ赤にしたり、いきなり、笑い始めてみたり。今日のジン、なんかいつもと違う。なんか、違う。もやもやが広がる頭を振って、あーもう!なんてぞんざいな言葉を使う。言う。上手く言えたかは、よくわからない。そのまま大の字になってジンの隣に寝ころぶ。寝ころんだまま、見つめ合う。
 ふいに、音が止む。
 体温で溶けた雪がジンの頬を伝う、その一筋に手を伸ばす。届かない。一瞬、宙を彷徨った手のひらで、彼の乱れた前髪の白と黒の境界線を撫でれば、くすぐったそうな声が漏れる。黒から、白へ、白から、その先へ。白い一房は、途中から雪と混じり合って分からなくなった。

「消えちゃいそうで、怖いなあ」

 そんな呟きに、ぱちり、瞬きを一つしてから、ジンは顔を上げた。ゆっくりと視線が結ばれる。

「消えないよ、僕は」

 ぽつり、彼の口から紡がれた言葉は白い息と共に消えてしまった。ああ、もったいないなあ、と思う。

「それ、信憑性ないから」
 去年も、そんなこと言ってたくせに、いなくなっちゃって。笑いながら続ければ、ジンの顔はみるみるうちに曇ってしまった。ちょっとたんま、そんな悲しそうな顔、させたくないな。
「……すまなかった」
「気にしてないよ」
「嘘」
「うん、嘘」
「……」
「ジン、耳、ちょうつめたい」
 申し訳なさそうに俯く彼の、真っ赤になった耳を温めて、くすくす、笑いかければ、相手は溶けてしまいそうなくらいやわらかく笑った。
「去年の代わりってわけじゃないけど」
「……」
「来年も、また来年も、ずっと、こうして一緒にいれたらいいなって、思うんだ」
「……」
「ね、ジン」






「……バンくん、今なんて言ったんだい?」




 手袋をはめた手を、彼の両耳から離しながら、へらり、笑って見せる。
「なんでも、ないよ」
 そう言いながら、身体を起こす。コートの隙間から入った雪が、溶けて濡れてしまうのも時間の問題だろう。雪を掃いながら立ち上がる。続けてジンも、身なりを整え始めた。真上でちかちかと揺れている街灯が、白い雪に反射して眩しかった。


「そろそろ帰ろうか、ジン」
「……」
「風邪、ひいちゃうし」
「……」
「ジン?」

 踵を返せば、不意にコートの裾を引っ張られる。思いの外強い力に驚いて、振り向く。右の手はそのままに、ジンはマフラーを巻き直しながら微笑んだ。

「もう少し、一緒にいられないかな」


 あ、それ、反則だと思う。

 くすくす、照れくさそうに笑い合う二人のすぐ後ろに、白い足跡が幾重にも続いている。



 

 




2013/01/04
(一月某日)





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