背筋が伸びる。目線を上げれば鏡越しに目が合うのがなんとなく気まずくて、自然と伏せ目がちになる。促されるままに床に膝を付けば、手元に黒の布地が揺れている。冷房の淡々と続く音と衣擦れの音、時おり聞こえる風鈴の音が耳に心地よい。思わず瞼を閉じかけたところで、ふと感じるはずのない場所に僅かばかりの違和感、思わず驚きに頭を擡げれば、姿見に映された自分の顔と、その後ろに座るその人と目、があ、った。
「……?あの、これ…」
「黒髪の女の子も欲しかったのよねえ」
「はあ、」
「うふふ、冗談よ」
 真理絵はさも可笑しそうに笑いながら、しゅるり、ジンの髪から簪を抜く。悪戯にまとめ上げていた後ろ髪は、癖がないため一切のあとが残ることなく、元の位置へと戻るべくはらりはらりと落ちていく。えりあしだけが名残惜しげにひょっこり跳ねているのを直してやりながら、真理絵はもう一度、ふふっと笑った。
 



* * *



 花火大会に行こうと提案したのはバンだった。賛同したのはいつもの二人。楽しげに昨年のそれだろう話に花を咲かせる一同の中で、ジンはひとり首をひねり、はなびたいかい、と聞きなれない言葉を口にした。
「浴衣出してもらわなきゃ」
「ったく、女ってホントそういうの好きだよなー」
「雰囲気は大事でしょ、カズも着なさいよね」
「はあ!?」
「……ゆかた、」
「ジン、着たことある?」
 先ほどからいまいち反応の薄いジンの顔を覗き込みながら、バンは優しく尋ねる。
「……見たことなら」
 言いかけたが、少し考える素振りを見せてからかぶりを振る。着物や袴なら知っている、と付け加えたジンは、いまいち浴衣を想像できていないようだった。眉間に皺を寄せ考え込む姿はなんともジンらしく生真面目で、微笑ましい。が、彼がCCMで浴衣について調べ始めた際に耐えかねて噴き出したバンが、「そんなに気になるのなら」とジンの手をとり、半ば引きずるように自宅へ連れて行くこととなったのは数時間前。
 戸惑うジンをいいからいいからと言い包め、家に引き入れる。玄関先に顔を出した真理絵に、「浴衣。俺のと、あと、ジンに」と告げたバンは「シャワー浴びてくる」と間延びした声で続け、ぱたぱた足音を立てて家の奥へと消えていった。
「まーた突拍子もないことを……」
 誰に似たのかしらねえ。頭を抱えながらも真理絵は、立ち尽くしているジンに「さ、上がって」と微笑みかける。
「いらっしゃい、ジンくん」



* * *



 ややあって着付けは始まり、ジンはされるがままに立ったり、座ったりを繰り返していた。父親のお下がりだという黒の浴衣は、線の細いジンには少し大きかったが、調整でなんとかなる範囲だった(と、真理絵は言っていた)。終盤に差し掛かりいよいよ終わる、といったところで、……つい先程までお喋りだった真理絵が急に黙り込むものだから、ジンは首を傾けることとなる。愛おしそうに、先程自分の髪を括っていた簪を見つめる彼女の視線に気付いたジンは、おずおずと口を開いた。
「綺麗、ですね」
「あら、ありがとう」
 どこか懐かしむ素振りを見せていた真理絵は、瞬間、現実に引き戻されたかのような顔をして、お上手ね、と微笑んだ。彼女の手のひらに転がしたそれは、淡い赤のまり菊に同じく赤の房の付いた簪で、決して安いものではないのだろうと思われた。よく手入れされているのがジンの目にも見て取れる。
「……昔ね、もらって。あの人から」
 あの人、心のうちで復唱しながら、ジンは気さくなバンの父親の顔を思い浮かべた。
「花火大会にいかないか、ってね。あの人、ああいう性格だし…こういうことしてくれない人で、だからすごく嬉しくて。実家の母に頼んで、浴衣引っ張り出して、精一杯めかしこんで」「すごく楽しみにしてたのよ、でも」「喧嘩しちゃって、結局」
「……喧嘩、ですか」
「ええ、あの人ったら、自分で誘っておきながら花火大会の日なんてすっかり忘れて。ナントカっていう研究に没頭していて」「でもって連絡とれたのは次の日の朝、信じられる?」
「……山野博士らしい、というか……」
「ふふ、そうねえ……今はね、ああ仕方ないな、って思うのだけれど。だってそういうところも……なんでもないわ、ともかく、若かったのかしらね。だって、すごく楽しみにしていたから。花火が、じゃなくて、ね」「……なんだか、裏切られたみたいで」「大ゲンカして…といっても私が一方的に責めていただけなのだけれど。もうしらない、こんなのもういらない、って。これ…突き返してね。一晩中着てたせいで、ぐしゃぐしゃになった浴衣で」
 そこまで言い切ってから、はたと気づいた真理絵は僅かながらに頬を染める。
「恥ずかしい話しちゃったわね」
「いえ」
「……ここ、よく見たら割れてるでしょ。あの人ったら、わたしがその時壊した簪、きれいさっぱり直して、“来年は絶対”とか言うもんだからおかしくて。そしたら、なんかね。もう怒ってたこととか、どうでもよくなっちゃって」
 からからと、思い出すように笑って一息をつく。
「でも、そんなことがあったから、もう、つけられないじゃない?歳も歳だし、ね」
「そんなことは……」
「ジーン!」
 ないです、ジンが言いかけたところで、部屋の外からやけに明るい声が聞こえる。声に促されるように時計に目を向けた真理絵は驚いた様子で手を動かし始める。
「あら、もうこんな時間。あ、ちょっと待ってジンくん。ちょっと下向いて……さ、これで終わりよ」
 きゅっと帯を締め直す。浴衣の色に合わせた下駄と、絆創膏を数枚持たせて背中をやさしく叩く。
「いってらっしゃい」
 深々と頭を下げるその少年の後ろ姿にゆるく手を振りながら、真理絵は笑う。
(……意外と、鈍感、なのねえ)
 先程までそこにあった簪を手で弄ぶように揺らしてから、真理絵は立ち上がる。疲れて帰ってくるだろう二人のために、来客用の布団を引っ張り出しながら。

「さて、と」

 彼の黒檀の髪にひっそりと咲いた赤いそれに、気付くのはわが子が先か、それとも。







2012/08/04
(おもいでばなし)





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -