ごうごうと響くエンジンの音は、起き抜けの耳に少々つらい。ジンは眉を寄せながらも、二、三度寝返りを打ち、やがて目をこすりながら身体を起こした。焦点の定まらない瞳で、真っ暗な部屋をぼうっと眺める。ふと、覚醒し始めた意識が部屋のドアから漏れる明かりに向かえば、「ああ、」――その感嘆符は声に出されたのか、はたまた心の中に留めておいたのか、まどろむ意識ではいまいちよく分からない。
明かりを見つめながら、数秒。暗闇に慣れはじめた目のその先は、壁にかかっている時計に移る。午後、11時、30分。最先端の技術が結集されたこの乗り物でいかにも時代錯誤なアナログ時計は、カチカチと音をたてながら部屋に静寂を作ることを阻止している。
長い針が31を指すのと同時に、ジンはずるずると掛布団を引き、音をたてぬようゆっくりと足を床につける。瞬時、ひやりと冷気が足を伝って、少々身震いをする。恐る恐るその動作を繰り返してから、ようやくベッド脇に立ちあがった頃には、足はすっかり冷たさに慣れ切っていた。荷物の上に折り畳んである大きめの上着を羽織りながら、そろりそろりと歩みを進める。隣のベッドですやすやと眠っている幼馴染を起こさぬように、開きかけの扉に手をかければ、一息。光が室内に入り込まぬよう、注意を払って部屋を出れば、もう一息。静かな足音をたてながら、ジンは廊下を通り過ぎて行った。
***
予定調和に、というか、案の定、というか。彼はそこにいた。食堂へと続く廊下、その中程で、膝を折り畳んで穏やかな寝息をたてている。
「バンくん、」
こんなところにいては風邪をひく、続けながら自分もしゃがみこみ、耳元で数度名を呼ぶ。肩を控えめに揺らせば、彼の口からくぐもった声があがる。
「ジン…?」
「……おはよう、バンくん」
「ん、おはよう」
ぱちりぱちりと瞬きを繰り返したその姿にほっとしながら手を離そうとすれば、ふにゃりと笑ったバンに手を引かれる。
「てか、あれ、ジン…なんで…」
「ドアが開いていたから、きっとここにいるんじゃないかと思って」
「へ?」
突然、バンが素っ頓狂な声をあげた。
「……ドア、開いてた?」
「ああ」
躊躇せずにそう答えれば、バンは大げさに頭を抱える。
「ごめん」と申し訳なさげに呟く彼に「問題ない」と返しながら、ジンは隣に座り込んだ。
「バンくんは、どうして、ここに」
「ん。ああ、なんとなく。考え事、したくて」
寝ちゃったけどね、とゆるやかに笑い飛ばす顔は、寝起きだからだろうか。普段よりずっとあどけない。
「……何か心配事でも?」
「心配事…というか」
少しの間、考えるように唸っていたバンは、やがて小さく頭を振りながら笑った。いつものような、周りまで笑顔にさせる笑い方とは程遠い自嘲気味な笑みに、ジンは僅かながら疑問を抱く。そんな彼を知ってか知らずか、バンはそのまま、膝に顔をくっつけた状態で、ちらりとジンを見据えた。
「……ジンはさ、怖くないの?」
「え?」
「……こんな、世界を、相手にするような戦いなんて」
息を飲む。何故、どうして、バンくんはこんなに思いつめているのだろうか。
逡巡するジンはやがて、口を開く。空調で乾いた喉が、少しだけ痛む。
「……こわいよ、とても」
「それなら…」
バンは顔をあげる。どうして、ここにきたのか、と。そう、言いたげな顔だった。続く言葉を制すように、ジンは優しく微笑みかける。
「でも、決めたことだから」
「……」
「僕は、後悔していない。ここに来たことを」
「……ジンは、つよいな」
ほとんど独り言のようにつぶやいてから、バンは空を見つめる。廊下の小型窓からは、シャンパオのネオンが煌々ときらめいている。
「バンくんは?」
「え?」
「君は、怖いのかい?」
少しの間、見つめあう。戸惑いと疑問が絡み合う視線を逸らすようにバンは俯き、やがてまた、弱々しく笑った。
「……こわいよ」
「……」
「怖くて、怖くて、今でも逃げ出したいくらいで。」
「……」
「馬鹿、みたいだよな。だって、それでも、」
「バンくん」
「おれはもう、大切な人がいなくなっちゃうのは、嫌なんだ」
バンの必死の嘆きを皮切りに、二人の間に沈黙が流れる。時折暖かな空気を送り続ける暖房の音だけが、お互いを繋いでいる。
「……バンくん?」
「う、ん……」
「眠いのかい?」
「うう、ん」
「……バン、くん」
返事はない。
「君の、大切な人、は、幸せものだね」
返事はない。
「すきだよ」
ぽつりとつぶやけば、それは独特な響きをもって闇に溶けて消えていった。返事は、ない。隣からはやがて、規則正しい寝息が聞こえてくる。
「うそだよ、」
苦笑する。自分の上着をバンにかけ、膝を抱えて座り込む。柔らかな栗色の髪が、ふわりと首筋のあたりをくすぐっている。
「……っていうのも、うそなんだ」
唇をかみしめながら、目を閉じる。親友の君に抱く特別な感情を、恋慕だと気づいたのはいつからだったろうか。……気づいてしまえばあっという間、日に日に思いは募るばかりであるというのに。
「友達でいたい、君を、好きになりたくない、」
声が、震えている。好きだ、きみが、すきなんだ。そう、言ってしまえばどれだけ楽だろう。……言ってしまえば、きっともう戻れない。聞かれていないという事実だけが今のジンにとって、唯一の救いであった。
「バンくん」
「……」
「バン、くん」
「…… 、」
……ふいに、彼の唇が動く。寝言、だろうか。呟かれたその名前には、懐かしさと、確かな愛しさが含まれていて。
「好きに、なりなくない」
視界が情けないほど霞んでいる。零れ落ちるそれを止める術など、ずっと昔に忘れてしまった。自分の意識と無関係に閉じようとする瞼に逆らうことなく、つられるように視線を落とす。手元に転がっていたCCMが、点滅しながら4月1日の終わりを告げている。
2012/04/03
(四月の魚)