「本当によかったの」

 不意にそんな声をかけられたものだから、ジンはふと足を止め……たせいで、片手の荷物が派手に音を立てた。周囲からの痛いほどの視線に気付き、慌てて取手を持ち直す。申しなさげに会釈を繰り返しながらゆっくり振り向けば、いつのまにか少しばかり離れてしまった距離のその先に、声の主の彼が突っ立っていた。
「……何がだい、バンくん」
 いかにも平然を装って問い返せば、向かう彼はむすりと不機嫌そうに口を閉ざしてしまっている。まったく、さっきからずっとこんな調子だった。ジンは肩を竦め、小さくため息をついてから、数歩離れたバンの元へと歩み寄る。足音に続いて響くキャスターの、コロコロとした音が嫌に耳につく。
 成長期の真っただ中であるせいか、否か。少しだけ背が高くなった彼を見上げるように、無理にでも視線を交わらせれば、なぜだか苛立ったような、ひどく怒ったような、そんな顔をしている。……もっとも、理由は分かっているのだが。
「バンくん、」
「……」
「バンくんてば」
 返事は一向にない。仕方なしに彼の袖のあたりをゆるく掴んで、そのまま揺するように促せば、…突として、くしゃりと顔を歪ませる。
「え?」
 ぽかんと口を開け、ジンは目を丸くして固まった。
(なんで…!?)
 おろおろと袖を掴む手を離し、宙を彷徨わせた指は、とどのつまり彼の髪に絡ませることで落ち着いた。おずおずと撫でつけるその指は、さすがにどうもぎこちない。眉をハの字にさせながら、唇を噛み締めている彼を見ていると、なぜだかこっちが泣きそうだった。

 ……しばらくそうしていただろうか。
 バンがゆるゆると頭をもたげたのは、ジンの指にたっぷり熱が籠った頃だった。変化に気付いたジンは、ぱっと手を離して、さあ言え、と言わんばかりに返事を待つ。バンは「う、」とも、「あ、」ともつかないような曖昧な声をあげてから、小さく、小さく口を開いた。
「……アミやカズに、なんて言えばいいんだよ」
「…え?」
 案に相違して予想外であったその言葉に、ジンは思わず間の抜けた声をあげた。なぜここで彼らの名前が出てくる? ……バンの訝しげな視線を避けるように、ジンは所在なく視線をうろつかせる。
「それは…」
 ……有り体に言ってしまえば、そこまで気が回っていなかった。…とは言えず。
「うまく取り繕ってくれると嬉しいな」
 まごつきながらも必死に言葉を選び、悟られぬよう笑みを作る。対するバンはというと、先程とは打って変わって表情を一切変えず、不審そうに瞬きを繰り返している。
「……無理だよ、ぜったい怒られる。しばらく口を聞いてくれないかも」
「それは、……そうかもしれないね、」
 聞こえるか聞こえないか、まるで独り言のように呟いてから、ジンはゆっくりと視線をずらし、改めて辺りを見回した。空港、ロビーと来て、今のジンが置かれている状況に気付かない者はまずいないだろう。察しの通りジンの右手側には大きな荷物が置かれているし、左手には海外行きの航空券が握られている。しかし、残念ながらバンの手には握られていない。……彼だけ、呼んだ。それを知ったアミさんやカズくんは、いったいどんな顔をするだろう。悲しむだろうか、いや、彼らのことだから、なんで呼んでくれなかったのか、と激昂して責められるかもしれない。責められるべきだ。怒られるべきだ。だって、自分は、バンくんだけ、呼んだ。どう足掻いたって、自分勝手の我儘だ。思い返す度湧き上がる羞恥に、ジンは俯いて、消えかける声を必死に紡いだ。
「……ごめん」
「…ッ!ごめんですんだら…!!」
 激憤した様子で荒げたバンのその声は、項垂れるジンの肩を揺らすに値した。が、次第にそれは小さくなっていき、そこから先は聞き取れなくなった。通り過ぎる人々の声や、アナウンスの声が遠くで聞こえる。暫しの沈黙。破ったのは、弱々しいバンの声だった。
「…ど、して」
「……」
「どうして、こんな急に…留学なんて」
「……」
「なんで、今日になって」
「……」
「一度も、相談してくれなくて」
「……バンくん」
「なんで……」
 バンの頬を、それまで堪えていたんだろう涙がぽろぽろと伝う。まるで小さな子供のように、しゃくりをあげながら泣きはじめた、その雫を指でぬぐうように、ジンはおずおずと手を伸ばす。落ち着くまでそうしてやってから、やがて思い切ったように、ジンはバンの胸に顔を埋める。驚いた様子のバンの腰に手を伸ばし、ゆるく抱きつく格好をとる。
「ジ、ン」
「……ごめんね、バンくん」
 依然として、口からは気のきいた言葉が出てこない。少しだけ苦笑しながら、ジンは物静かに言葉をつなぎ始めた。
「今まで、黙っててごめん」
「……」
「くわしいことは、言えないけれど、僕は…自分にも出来ることを探したいんだ」
「……自分に、できること?」
「うん」
 迷いのない確かな口調でそう告げる。言いたかったことをやっと言えた充足感に包まれながら、ジンは話を続けようと口を開いた。
「だから、バンくん」
「………やだ」
「え」
 ぱちくり、ジンは瞬く。驚いて顔を上げると、案の定、バンの顔はいかにも不機嫌といった様子で、頬を膨らませている。面食らったジンは、首をかしげるしかない。
「え、えっと、」
「やだ、やだやだやだ」
「!?バン、く、」
 駄々っ子のように声を大きくしたバンに気圧され、ジンは息をする暇もなく、ぎゅ、と音がするほどに抱きつかれた。思いのほか強い力で腕をまわされる。息が苦しくなる。身体が痛い。顔が、熱い。抗議の声を上げようにも、泣きそうな声で続けられれば唇を閉ざすしかない。
「……あ、の」
「……やだよ、せっかく、ジンと、仲間になって……えっと…なったのに。でも、俺、ジンとまだ何も、全然、全然できてない」
「……」
「ジンは、LBXはうんと強いけど、他は…思ったより、強くないよ。強気なだけで、…泣きたいのを、我慢してるだけで…だから、守って、あげたいって、思ったのに」
「……」
「…なにが、自分にもできることを、だよ。かっこつけちゃってさ。勝手に決めちゃって。そういうの、もう、似合わないんだからな、……ねえ、ジン」
 それはもう激しい剣幕で、ほとんど息継ぎもせずに言い放ったバンの、その目には再び涙が滲んでいた。
「………それは俺と一緒じゃだめなこと?」
 ひゅっと息を吸い込む音と、心臓の音と、お互いの呼吸の音が混じり合って喧騒に消えていく。
「バン、くん…」
「いかないでよ、ジン」
 想い人の、縋るような瞳に見つめられれば、誰だって答えなど、決まっているのに。ジンがゆっくりと口を開きかけたその瞬間、突然、ロビーにアナウンスが響く。はっとして時計に目を向ける。幸か不幸か、それはジンの搭乗する予定の飛行機の案内を告げるもので、結局、ジンの開きかけた口は言葉を続けることはなく閉じられた。そのまま、ばつが悪そうに目を伏せる。
「……行かなくては」
 名残惜しそうに身体を離せば、相手もまた残念そうに数歩下がる。もう、引き止められることはなかった。晴れやかに、とまではいかなかったが、後腐れの無い、飾り気のない挨拶をする。片手の荷物を確認し、ジンは歩みを進めようと足を踏み出す……一度だけ振り返る。
「……バンくん」
「ジン?」
「……最後に、これだけは……気付いてくれると、嬉しい。どうして今日、君だけ、呼んだのかってこと」
 弱々しく微笑む、ジンのその言葉の意味を咀嚼したバンは目を丸くする。それから少し、ほんの少しだけ、悲しそうに笑った。
「それって、俺が思ってることで合ってる?」
「…おそらく」
「……うぬぼれるよ」
「かまわない」
「ジン」
 返事をする暇もなく腕を引かれる。周囲に気付かれないような、かすめるだけの口づけだった。ああ、幸せだ、と思った。ぼんやりと夢を見ているような気分だった。もしかして、これは夢なんじゃないか、自嘲しながら、そう思った矢先、不意に、ジンの耳元に、熱い吐息がかかる。目を閉じる。目を見開く。



「    」







 飛行機に乗り込めば、もう戻れやしない。別れてしまえば、そのあとは実に淡々としていて、ジンの通路を歩く足取りは確かだった。ようやく見つけた数字と記号が示されたそこが、窓側の席であったことをかすかに嬉しく思いながら、ジンは腰かける。あてもなく窓の外を眺めていると、不意に、じわりと視界が滲む。……涙だと気付くのに、そう時間はかからなかった。
 ふと、小さな、小さな声で名前を呼んでみる。バンくん、と呼んでみる、先程返すことができなかった返事をする、ぼくも好きだと、言ってみる。好きだった、と言ってみる。





2012/01/29
(花むけ)





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