熱を出すのはいつぶりだったろう。ジンは、上手く回らない頭で、ぼんやりとそんなことを考えた。
 例の騒動が過ぎてから、溜まりに溜まった疲れやストレス、その他諸々の無理が祟ったのだろうか。事件の処理に追われながらも気丈に振る舞っていたはずのジンは、いつしかふらふらと倒れ込み、そして気付いたらこの有様だった。38.6度。体温計に示された数字を茫然と眺めながら、ジンは小さく眉間に皺を寄せた。
 心配性の執事がこまめに替えてくれた濡れタオルが、ひんやりと気持ちいい、と思っていたのも束の間で、それはすぐに生温く温度を変えていった。耐えきれず氷枕に顔を押し付けるものの、ゴム特有の匂いが鼻について余計に頭が痛くなる。うまく動かない身体は重く、熱く、何よりだるい。肢体は自然とシーツに冷たい部分を求めて動いていたが、残念ながら布団には既に熱が籠っており、おまけに汗のせいかじっとりと湿ってしまっている。気分が悪い。喉が痛い。頭が痛い。鼻の奥が痛い。…目頭が熱い。堪え性のなさと、情けなさと、生理的なものが相俟って、寝返りを打つたびにジンの頬を涙が伝った。

(海道邸にきたばかりの頃は、確か、こんな風に、熱ばかり、出していた)

 暗い部屋で、こうして天井を見上げていると、ふと、かつてのことを思い出す。この家に連れてこられた時、慣れない環境での暮らしは、幼いジンにとってかなりの負担になっていたのだろう。気を抜いたら熱を出し、おさまったかと思うとまた風邪をひき…の繰り返しだった。

(なつかしい…)

 あの頃、海道邸でジンはいつも一人だった。執事も、お手伝いも、いろいろな人が自分に良くしてくれた。それでも、ジンは一人だった。いつも堪え切れない程の寂しさと、言いようのない苦しみの中にいた。あの時の自分にとって、信じられるのは祖父だけで、祖父だけが自分の全てだった。だから、熱を出した時、祖父が心配そうに頭を撫でつけてくれる、その手が、その手の優しさが、温かさが、何より幸せで、何より大好きだったのだ。

(……でも、風邪をひかなくなったのも、熱を出さなくなったのも、おじい様に迷惑をかけたくなかったからだ…)

 数年が過ぎて、いつしかジンが熱を出しても、祖父はベッドに臥せる孫の元に顔を出さなくなっていた。最初こそついに身限られたのかと涙ぐんだが、ジンはそこで初めて彼がどんなに忙しい人だったかに気が付いた。赤面した。とんだ甘えだった。5歳か、6歳にして、ジンは恥じた。

(あの日が、最後だった、)

 それ以来、ジンは一切病気をしなくなった。そうすると、祖父は喜んでジンに習い事をさせた。ピアノ、ヴァイオリン、習字、茶道、花道、進められるものはなんでもやった。覚えることは楽しかったし、何より祖父に褒められるのが幸せだった。彼から与えられる全てのものが輝いて見えた。
 だから、初めてLBXを貰った時は心臓が飛び跳ねるくらい嬉しかったし、上達する度に祖父は自分を「自慢の孫だ」と笑ってくれる、その言葉は、家族を失ったジンにとって素晴らしく甘美な響きに思えた。これ以上の幸せはないと感じた。味わったことの無い感覚がそこにあった。ただその言葉を聞きたいがためにLBXを続け、やがて遊びとはかけ離れたことで利用するさえ厭わなくなっていた。


 彼のために生き、彼のために利用され、彼を裏切り、しかし…その人はいつの間にか殺され、その身代わりを自分が壊(殺)した。目まぐるしく変わり続けた日々が、あっけなく終わった時、ジンは人知れず泣いた。――祖父に出会った日、「泣くな」と言われた、あの時以来、はじめて泣いた。声が、かれるまで泣いた。
 そしてそのまま、ほとんど忘れかけていたように、熱を出した。




 暗い部屋を、カーテンから漏れた月の明かりが薄ぼんやりと照らしている。ふと、ジンはベッドから立ち上がった。節々の痛みにこたえた身体を奮い立たせ、覚束ない足取りで、部屋の隅にある机に向かう。引き出しの中には、一枚の古ぼけた写真、…彼の膝に抱かれる自分がいる。
「おじいさま」
 躊躇しながらも、写真に呼び掛ける。いつ撮ったものだろう。ほがらかな祖父の顔に、ジンは顔をほころばせた。アンドロイドに、こんな顔できるはずがない。絶対に、できるはずがない。ジンは、額に写真を押し付けて、込み上げる何かを、必死に飲み込んだ。
「おじいさま」
 もっと名前を呼んでほしかった。もっと褒められたかった。もっと笑ってほしかった。もっと話がしたかった。もっと声が聞きたかった。いつか恩返しがしたかった。貰った分の幸せを、倍にして返したかった。家族になりたかった、……本当の、孫になりたかった。お前は自慢の孫だと、手放しに喜んでほしかった。
「おじいさま、」
 掠れたその言葉を何度繰り返したって、返事をしてくれる人はもういない。もういないのだ。







2011/01/07
(発熱)





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