放課後、今日は体育館を使う部活がどれも休みと聞いた莉藍は、その無人の体育館でダムダムとボールをついていた。

中学を卒業してからはずっとストバスでバスケはやっていたが、体育館では一度もなかった莉藍にとって、またとないチャンス。


先生からの許可を早々に得た莉藍の表情は、キラキラと輝いていた。



「よし、…っ、と………」



ダム、とボールを手に持つと、そのままハーフラインからゴールに向けてボールを放った。ボールは弧を描いてまるで吸い込まれるようにシュパッと入った。



「うんうん、鈍ってない!体育とか早くバスケしないかなあ…あ、球技大会とかの種目ってバスケなのかな?」



独り言をぶつぶつと呟きながらゴール下に落ちたボールを取り、今度はそのエンドラインから反対側のゴールへ放った。これも当たり前、とでも言うように淵にぶつかる事なく綺麗に決まった。


シュートタッチを確認出来たら、次はドリブル等の練習だ。


キュッキュッとバッシュの音が響く。この音が莉藍は聞きたかったのだ。ストバスでは鳴らない、体育館独特のこの音を。

もうこれだけで莉藍の気分は上がる上がる。



「っはー!疲れたぁー!」



ドテリ、と大の字になって寝転ぶ。冷えた床が気持ちいい。



「…みんな、どうしてるんだろうなぁ……と言っても涼太にはもう会っちゃったから懐かしくもなんともないんだけど」



クスクスと笑いながらそんな事を言う。きっと黄瀬が今ここで莉藍の話を聞いていたら間違いなく「ヒドッ!?」と言っていたに違いないだろう。

それさえも想像出来てしまうのだから、中学の三年間は素晴らしかったのだと今更ながらに実感する。まあ黄瀬とは2年からの付き合いだが。



「………さ、…う?」


「………?」



突然ボソボソと聴こえてきた話し声に莉藍はピタリと動きを止める。体育館裏とはまた予想のつきそうな展開にクッと眉根が寄ってしまう。

体育館裏にはあまり良い思い出がない。それも自身の中学時代を振り返ればすぐに思い浮かぶものだが、今はそれどころではない。よいしょ、とおばさんのような掛け声とともに立ち上がり、あまり靴音を鳴らさないように歩く。下の方の窓際へちょこんと座ると、さっきよりもより大きく、クリアに話し声が聴こえた。



「まだまだ足りないのよ、そう…だからね?もっともぉーっと虐められてもらおうかなって思ってるの」

「いや、いや…おねが、っやめて…!」

「ふふ、私はなぁーんにもしないわよ?だからそんなに私相手に怯えないでよう。今から貴方が怯えるのは、か、れ、らっ!そして私は……貴方に怯える」



完璧でしょう?とロングヘアーの女は醜い笑みを浮かべた。彼女の目は小さくうずくまっている女生徒へと向けられている。その瞳に涙をいっぱいに溜めた女生徒の制服は薄汚れていて、見えている腕の部分だけでも痣がチラチラと此方を覗いていた。

その状況で、莉藍は全てを理解した。あの女生徒は、あの目の前の女に嵌められているのだと。そうして騙された“彼ら”とやらは女生徒に暴行を加えているのだと。


それに気づいても、莉藍にはどうする事も出来ない。と言うよりどうして今まで気づかなかったの、という自責の念が大きい。莉藍がグッと唇を噛み締めると同時に、パァン!と何かを叩く音が嫌に大きく響いた。


――そこからは早かった


ロングヘアーの女が甲高い声で叫び、それを聞きつけた彼らとやらが慌てて駆けつけたのだ。



「麻巴(あさは)っ、大丈夫かよぃ!?」

「ぁ、っ…ブン太……!わたし、わたし……!」

「大丈夫、落ち着いて麻巴。俺たちがいるから」

「精市ぃ……!」

「ま、待っ…お願い、話を聞いて!私は何も」


――ガンッ!!


何もやっていない。そう言おうとした女生徒を遮ったのは、一つの拳だった。男と女、その力差は圧倒的なのにも関わらず、男は躊躇いなくそれを奮ったのだ。

窓から見ていた莉藍はハッと息を飲み、静かに決意をして体育館から飛び出した。


これは、私たちの時とよく似ているから。もっとも私たちはお互いの依存度や仲間意識が他よりうんと高かったから誰も騙されず、結果その女は帝光を去っていった。

莉藍はふとそれを思い出すが、ふるふると頭を振って急いで現場へ向かった。



「最低じゃな、やっぱりお前さんも結局は俺ら目当てじゃったんか」

「っ違う!なんで、し、信じてっグ…!」

「言い訳など見苦しいですよ」

「ゴホッゴホッ!ッ、おねが、し、じて…」

「いいからさっさと麻巴先輩に謝れよ!」



赤也が拳を振り上げたその時、パシッと誰かに掴まれた。途端に静まり返る場に、莉藍の荒い呼吸音だけが響いていた。



「ハァ…ハッ……間に合った…?」

「…君は誰だい?」



幸村はスッと目を細めて莉藍に問いかける。けれどここでも自分を貫き通す莉藍はそれを無視して女生徒の元までゆっくり近づく。

涙でぐしゃぐしゃな顔や、殴られてボロボロな体を初めてしっかりと見た莉藍の顔は勝手に歪んでしまう。



「…大丈夫、…じゃないよね。保健室行こう、手当てぐらい出来るからさ」

「え………」

「傷、そのまま放っておいたら化膿するよ。顔もあったかいタオルで拭かないと、明日パンパンになっちゃう」



ほら、と莉藍の手が女生徒の顔の位置に差し出される。女生徒は信じられない、と目を見開いた後、おずおずとその手を取った。



「ちょっと待ちなよ、勝手にそいつ連れてかないでくれる?」

「君の許可なんているの?いらないよね?つーか男が女に暴力奮うとかあり得ないんだけど」



ハッと鼻で笑い、莉藍は女生徒を連れてその場から去った。よたよた歩く女生徒を心配そうに見やりながら。










「っ………」

「あ、痛かった?」

「いえ、染みただけです…」

「あ、ほんと?ごめんね」



でも、もうちょっと我慢してね

なるべく優しい声色で宥めると、ホッとしたのか女の子はポロポロと涙を流す。莉藍は指先でそっとそれを拭い、頭をぽんぽんと撫でた。



「わ、わたし…っ、なにも、してないのに…!」

「うん、わかってる。全部――全部見てたから」



とうとう大声で泣き出した女の子をぎゅっと抱きしめる。傷だらけな体は、女の子が今まで頑張った証だ。



「お疲れ様」



莉藍の優しい声が、女の子の心にじんわりと広がる。そう、その言葉が欲しかったんだ。

男テニマネージャーになった最初は、みんな口々に「お疲れ様」「ありがとう」と労ってくれた。なのに、最近麻巴がテニス部のマネージャーになってからはそれも一転。どれだけコート整備をしても、ドリンクを作っても、洗濯をしても、部室を片付けても、みんなそれが当たり前であって、労わる必要なんてないかのように振る舞う。

麻巴はバレない程度に施された化粧を汗で滲ませないように、日陰で大音量の声援を贈っている。マネージャーの仕事をしたことは、一度もない。



「も、どうしたら…!こんなの、やめたい…っ」



ぽろりと本音が零れ落ちた。そこまで追い詰められていたのか、と莉藍は目を見開く。



「…逃げるのも、ありだと思うよ」

「え………」



女の子はその言葉に驚いて莉藍を見やる。莉藍はふんわりと優しく微笑み、それ以上は何も言わなかった。

けれど、女の子にとってそれは何よりも欲しかったものだった。――そう、彼女は逃げたかったのだ。この理不尽な学校から。



「…ありがと、ございます…!」



やっと解放される。そんな想いが込められた、お礼だった。



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