いきなり変わった視界に目をぱちぱちとさせるが、御幸はそんななまえを気にすることもなく、水谷と島崎に冷ややかな視線を向けた。


「こいつ、俺のだから。勝手に触るのやめてくんね?」


ぎゅうっと痛いくらいの抱擁を受けるなまえは、上から降ってきた言葉に一気に顔を赤くした。いきなり何を言っているんだ、と叫んでいつもみたいに頭を叩こうとしたが、そんなことをしてしまえば御幸をさらに怒らせてしまう。なまえには“大人しくする”という選択肢以外残されていなかった。


「うっそぉ! あんた彼氏いたの!?」
「聞いてないんだけどー! いつから? いつから!?」


友人達が椅子から立ち上がって勝手に盛り上がるのを他所に、島崎はにっこりと笑った。


「そんなの、オレにはかんけーないよねぇ?」


「だいたいさぁ、」と島崎は言葉を続ける。ぴくり、と御幸が帽子のつばの下で反応したが、気づけば被っていた帽子が足元に落ちていた。瞬間、真っ青になるなまえの顔色。当然だ。何せ御幸はさっきまで話題にでてたプロ野球選手。そんな人がこんな大学に、しかも彼女がいるだなんて話が広まってしまえば、御幸もただでは済まないはずだ。


「っ、かず、」
「黙ってろ」


乱暴な言葉。思わず御幸の顔を見ようと見上げれば、その口元は弧を描いていた。それだけで御幸が何か良からぬことを企んでいるのがすぐにわかった。だてに長い年月をともに過ごしていない。
「待って」と言おうとした口が御幸の胸で塞がれる。嫌な予感しかしないなまえの胸中を知る由もない御幸は、ゆっくりと顔を上げてその相貌をカフェテリアに曝した。――一瞬の静寂、からの、爆発的な歓声が沸き起こる。


キャーーーっっ!! うそ! うそぉ!! 御幸一也だ!!」
「やだやだやだやだ、なにこれ! テレビ!?」
「まって、あたし今日ほぼスッピンなんだけど!」
「もっと気合い入れて化粧してこれば良かったぁー!」


自分の身なりを気にする女達と、


「うわっ、マジやべぇ! 御幸一也じゃん!」
「ホンモノすげぇカッケェ……」
「サインくれるかな!?」
「いや、ここはサインボールだろ! すげぇ欲しいんだけど!」


サインを欲しがる男達。
そんな周りの大学生達に、御幸は完璧な笑顔を作って手を振った。きっとここに倉持が居たのなら「気色悪ぃ笑顔だな…」と心底引いていたに違いない。
暫くそうしていた御幸だが、そろそろ話を進めたいのか目を島崎へと向ける。御幸の声を聞きたい生徒達は皆しん…と静まり返り、カフェテリアでは声を発する人はいなくなった。


「……本物…?」


島崎の声が響く。かすかに目を見開いていたが、それもすぐに無くなりいつもの緩やかな笑みを浮かべた。


「ふぅん…いいの? まだプロになって1年目でしょ? 恋愛にうつつ抜かして…世間に叩かれるんじゃないの〜?」


そう、なまえが危惧していたのはまさしくそれだ。いくらプロで、しかもドラフト1位とはいえ、まだ1年目なのだ。そんな人がいきなり恋愛スキャンダルだなんて笑えない。
だけど、そんななまえの心配を他所に御幸はシニカルに笑んだ。


「なまえと付き合うのに、なんで隠れる必要があるんだよ」
「だーかーらー、そういうゴシップ、球団側としては避けたい部類じゃないの?」
「それこそ関係ねぇよ」


島崎の台詞をピシャリとはね退ける。


「それにあいにく、もう監督には報告済みでね」


眼鏡の奥にある瞳を細め、御幸は挑発的に言い放った。ぽかんと口を開けて固まる島崎を置いて、カフェテリアは「ワァ…っ!」と大きな歓声に包まれた。
その歓声を背に、御幸は帽子をかぶり直してなまえの手を引っ張りながらカフェテリアから出る。途中で声をかけられたり熱視線を向けられたりもしたが、御幸はにこやかな笑顔一つで終わらせた。
大学近くに停車させていた車に乗り込み、ガチリとシートベルトを締める。御幸はすぐに帽子を取り、少しぺたんこになった髪をぐしゃぐしゃと乱した。


「か、一也、あの…」
「…………」


思いきってなまえが話しかけても、御幸は返事の一つもしない。さっきまでの笑顔はどうした!と言いたいが、そんなことを言える雰囲気でもなく、なまえは重苦しい空気に耐えるように自分のつま先を見た。


「……あいつとはどんな関係なわけ?」


五分ぐらい経った頃だろうか。不意に御幸が呟いた。車内は音楽も何もかかっていなかったから、小さな呟きのそれでもなまえの耳には充分聴こえた。


「あいつって……島崎くん?」
「…名前で呼ぶほど仲良いのかよ」
「いや、名字だし、」
「俺が居るのに、他の男の名前呼ぶな」


自分から振ってきたくせに、理不尽なことを言ってのける御幸。なまえは湧き上がる怒りをそのままぶつけようとしたが、それではだめだと深呼吸する。


「…たまたま授業が重なって、隣に座っただけ。友達でもないよ」


二言三言話しただけだった。なのに今日、まさか話しかけてくるなんてなまえも思わなかったのだ。なまえの中で島崎初とは、ただの知り合い。それ以上でもそれ以下でもないのである。


「じゃあ何で口塞がれてたわけ?」
「口って……」


ぼわんと思い返す、唇に伝わる手のぬくもり。途端に顔をほんのり赤くさせたなまえに、横目で見ていた御幸はぶつんとキレた。
ぐん、と車の速度を上げてそこら辺のパーキングに停める。シートベルトを外してなまえの座席(助手席)のリクライニングをぐいっと倒した。


「ぅわぁッ!?」


もちろんなまえは驚き、声を上げる。が、その声もすぐに御幸の口で塞がれた。


「……っ、ん、んんーっ! んぅっ……ん…」


まるで喰らうようなキスに、なまえの目尻からは自然と涙が流れる。御幸の舌がなまえの舌をすくい取るように絡み合い、淫らな音が車内に響いた。


「んゃ…ッ、みゆ、ん…っ!」
「はぁ…っ………もっと、」


ぼそりと低くかすんだ声に、なまえはぞくりと肌を粟立たせた。ぼんやりとする視界に映り込む御幸の瞳は、ギラリと鈍い光を含んでいる。
ああ、もうむりだ。
なまえは理性が切れるのを最後に、震える腕を御幸の背中に伸ばしたのだった。







あの後、御幸はしっかりなまえを美味しくいただき、帰路に着いた。


「これからはあの男と話すなよ」
「無理だと思うけど…」
「無理でも何でも、絶対話すな」
「うぇぇぇ……」
「なに、お前はあいつと話してーの?」
「ちっがう!」


「ならいーじゃん」と御幸は軽い口調でなまえの膝に頭を置いた。ぎゅむぎゅむと腹に顔を押し付けてくる御幸を見て、これ以上言っても無駄だと思ったなまえは諦めのため息を吐いてそっと御幸の頭を撫でた。


「明日、球場来いよ」
「きゅ、急だね……」
「言ったろ、監督には報告済みだって。それに絶対SNSに書き込む奴だっているだろ、ということはマスコミなんかも来て身動き取れなくなる。そうなる前に監督には会っとかないとな」


(ちゃんと考えてたんだ…)と少し目を丸くするなまえに、御幸は「うりゃ、」となまえの鼻をつまんだ。


「俺だってちゃんと考えてるんです〜」
「いたいいたいっ、」
「…………、」
「…っ、たいってば! もう!」


がぶり、と御幸がなまえの首筋を噛んだ。甘噛みではない。ガチだ。頭を叩かれてしぶしぶ口を離した御幸だが、首元に残るくっきりとした噛み跡に満足したのか最後にぺろっと舐めて、また膝の上に落ち着いた。


「いきなり何すんのさ……」
「別にー。(これでしばらくは近く野郎もいなくなんだろ)」


御幸の思惑など知る由もなく、なまえは噛み跡の残る首筋をさらし続けたのだった。