そんな勧誘を受けたのが数ヶ月前。あれから一週間以内に片岡に返事をして、今や野球部の敏腕マネージャーへとその名を周囲に知らしめていた。
先輩マネージャーとも関係は良好で、部活がオフの日にはマネージャーだけで遊びに行ったりなどもしている。


「春乃ちゃん、これ持って行ってもらってもいい?」
「もちろん!任せて…っととと…!」
「(だ、大丈夫かなぁ……)」


ボールが沢山入った籠を、ふらふらと覚束ない足取りで持っていく春乃の背中を心配そうな眼差しで見送りながら、なまえはノートとペンを片手にブルペンへと向かった。

ブルペンでは沢村、降谷、御幸、クリスが投手練をしていた。捕手から飛ぶアドバイスに文句を言いながらも応える投手。その“相棒”とも呼べる関係に、なまえはかつての“光と影”を思い出した。
誰よりも輝いていた光、そしてその光を支え続けた影。そんな二人を見るのがたまらなく好きだった。


「降谷、お前ストレートはピカイチなんだけどなぁ」
「…他のだって投げれます」
「いや、投げれてねぇから言ってんだけど」
「…………」
「はいシカト!」


そんな会話にハッと覚醒したなまえは、慌ててノートに書き込んでいく。図やポイントを分かりやすく纏められたそのノートは、中学でもしていたことだ。これをもとに練習方法やケアの仕方、食事の栄養管理なども形成していくのだ。

暫くそうして観察していくと、御幸がなまえに気づいた。


「お、なまえ!今日もご苦労さん」
「御幸先輩達こそ!」


声を掛けた御幸に返事をしながら、沢村や降谷に手を振る。それに素直に振り返してくれる二人に癒されながらも、邪魔にならない程度に話しかけた。


「二人とも!前よりもスピード増してるよ!」
「ほ、ほんとか!?」
「………!」
「ふふ、ほんと!」


嬉しそうに綻んだ二人を見て、なまえは肩の力を抜く。こうして成長を間近で見られるのは幸せだなあと、瞳を細めた。
「あ、」と思い出したような声を上げたなまえは、クリスと御幸の元へ駆け寄る。


「あの、これお二人に渡しておきますね」
「これって……」
「“いつもの”か?」
「へへ、はい。昨日仕上がったので」
「さっすが!なまえちゃん愛してる!」
「あははー、ありがとうございます」
「ハァ…御幸、みょうじから離れろ。それを二人に伝えに行くぞ」


御幸の「愛してる」宣言に動じないなまえだが、初めてそれを言われた時はひどく動揺したものだ。だがこうも何度も言われてしまえば軽く流す技も身につくというもの。


「ありがとな、なまえ」
「ありがとうみょうじ」
「……いえ、お役に立てたのなら良かったです!」


たった一言。「ありがとう」。
それだけで、こんなにも心は満たされていく。


「じゃあ私はノック練習の方を見てきます。もう少しで休憩だと思うので時間になったら呼びにきますね」
「お、よろしく〜」
「ま、待ってくれみょうじ〜!俺を置いていくなァ!」


今伝えた練習方法に顔を真っ青にさせた沢村は去っていくなまえを呼び止めるが、なまえはただ振り向いて満面の笑みを向けただけだった。
その後、沢村と降谷の悲鳴が聞こえたが気のせいということでなまえは知らぬふりを通した。









「はぁーっ……疲れたぁ……」


家に帰り、制服から着替えてベッドに寝転ぶ。布団の柔らかな肌触りにうとうとしかけるが、まだまだノートに纏めきれていないことを思い出して気合いで起き上がり、机に向かう。
棚にある数あるファイルを眺めて、何を思ったのか中学時代のファイルを開いた。事細かに纏められたそれはなまえの努力の結晶で、さらに言えばあの日、赤司達の目の前で落としたファイルだった。


「…仲間だと、思ってたんだけどなあ…」


一言呟いて、なまえはバスケ部関連のファイルをごっそりと棚から抜き出し、何の躊躇いもなくゴミ箱へと捨てた。ゴミ箱の中にあるファイルを暫く見つめていたが、それでも未練はないとでも言うように新しいルーズリーフを取り出してペンで書き綴っていく。内容はもちろん、野球のことだ。


「…みんなの為になりますように…」


たった一つの願いを込めて、なまえは一心不乱にペンを動かした。










あれから数日が過ぎ、土曜日の選手達は一日練に励んでいた。もうすぐ試合も近いことから片岡も、選手も、もちろんマネージャーもみんな気合十分だ。


「休憩!」


その言葉に選手は雪崩のようにベンチへとやって来る。マネージャー勢はドリンクとタオルを素早く準備して誰が誰のかを分かるように置いておく。手渡しなんてしていれば日が暮れてしまうし、何よりも他にすることは満載なのだ。


「貴子先輩、あっちのボールは拾い終わりました!」
「ありがとう。春乃は……」


二人して春乃を見てみれば、大量の洗濯物を抱えた春乃が転けた。なんとも言えないタイミングに貴子もなまえも顔を見合わせて笑った。


「行きましょっか」
「はい!」


クスクスと笑いながら春乃の元へ行って、洗濯物を3分割してそれぞれ持ち運ぶ。洗濯機に突っ込んでスイッチを入れた。
ふう、と一息つく暇もなく部室の外に出て他のマネージャーの元へ行こうとしたが、いきなり後ろからグイッと腕を引っ張られてそれは叶わなかった。


「ぅわっ!!?」


情けない声が出てしまいながらも後ろを振り向くと、かつて見慣れた赤色がそこに居た。赤だけじゃない、緑も、紫も、青も、黄色も、水色も。全員そこに居た。


「な、んで……」
「いきなり驚かせてすまない。…話があるんだ」
「はなし……?」


眉を下げて話し出す赤司だが、なまえには訳が分からなかった。話なんてなまえにはなかったし、そもそも話したくなんかなかったからだ。

目の前にいる人達に深く深く傷つけられた傷は、野球部の暖かな空気に包まれてやっとかさぶたが取れる頃にまでなったと言うのに。どうして今更その傷を抉るように現れたのだろうか。


「なまえっち、ごめ、」
「謝らないで!」


黄瀬の謝罪を遮り、なまえは必死に叫んだ。謝罪なんて聞きたくない。ただその一心だった。
もうここから去りたい、目の前の人達から逃げたい。そんな思いで未だに赤司に掴まれている腕を振り払おうとするが、それよりも先に反対側の腕を引っ張られてなまえは赤司から解放された。


「大丈夫?なまえ」
「みゆき、先輩…」
「怪我はないか、みょうじ」
「キャプテン…倉持先輩達まで……」
「くす、涙目も可愛いけど…あいつらに泣かされそうってのは気にくわないから、さっさと拭いて」
「わぶっ…これ、亮介先輩のタオル…」
「いいから使いな」
「あ、ありがとうございます…!」


現れたのはレギュラー陣だった。長い月日をかけて仲を深めたなまえ。途中参加にも関わらずこうして仲良くなれたのはなまえの努力のお陰だった。キセキ達に言われた『いらない』という言葉に蝕まれながらも、必死に練習方法やケアを纏め、かつそれを実践する確かな努力に、野球に何よりも厳しいレギュラー陣も次第に惹かれたのだ。


「…で、君達は誰かな?部外者だよね?」
「なまえを連れ戻しに来た」


亮介の仮面のような笑顔を向けられても揺らがない赤司は、目的をはっきりと口にした。瞬間、なまえはびくりと反応してしまう。


「連れ戻しにィ!? 都合のいいこと言ってんじゃねぇよ!!」
「あなた方には何の関係もないはずだ」
「ヒャハ、関係?大事なチームメイトだよ!!」


伊佐敷と倉持が吠える。そこでもう我慢ならないと前に出てきたのは青峰だった。


「うるせェよ。とにかくなまえを渡せよ、だりーな」
「なまえちんだって、こっちに戻りたいはずだよ〜?」


どこまでも自分勝手なキセキの言葉。なまえは目の前にある御幸の背中を眺めながらぼんやりとしていた。

こんなに野球部に迷惑かけて、私は一体何をやっているんだろう。これ以上迷惑をかける前に行かなきゃ。
なまえはそう思い御幸の後ろから一歩足を進めたが、御幸から発せられた言葉にその足を止めた。


「なまえはもう青道野球部のマネージャーだ。大事な大事な仲間なんだよ、それを『渡せ』?ふざけたこと言ってんじゃねーよ」


『仲間』

ああ、なんて暖かくて、優しい響き。
トクンと鳴る心臓。なまえはそれを確かに感じながらそっと御幸を見上げた。すると御幸もなまえを見ていて、フッと口元を緩めてなまえの頭を優しく撫でる。


「なまえは俺たちに必要な存在だ。それを他所に、ましてやなまえを『いらない』なんて言った奴らの所に戻すわけねぇだろ!」


涙が、溢れた。
キセキに『いらない』と言われた時も泣かなかったのに、どうしてか、今になって涙が止まらない。

ああ、自分をこんなにも必要だと思ってくれているなんて。なんて幸せなんだろう。


「…なまえさん」
「……黒子くん」
「…誠凛に、来てくれませんか?」
「………、」
「貴女の力があれば誠凛はもっと、」
「いや」


黒子の言葉を遮ってなまえは静かに断った。溢れる涙をタオルで拭い、なまえは御幸の横に背筋を伸ばして立った。

こうしてキセキのみんなの目の前に立つのは、久々だ。初めて会った時、不安でいっぱいだった私に君達は笑顔で迎え入れてくれたよね。


「みょうじのマネジメントは凄いな、ありがたいよ。――みょうじが居てくれて良かった」



瞼を閉じれば思い出す、言葉の端々。
ねぇ赤司くん、私ね、赤司くんに言ってもらえたその一言があったから、どんなに辛い部活も頑張れたんだよ。

なのに、


「…みんないろいろ言ってるけどさ、気づいてる?」
「なまえっち…?」
「一度も、『私』を必要だって言ってないってこと」


目を見開くキセキ。なまえはそんな彼らを見てやんわりと微笑んだ。恐らく、これがキセキ達に向けられる最後の笑顔になるだろう。自分でそう思いながら、なまえはもう一度タオルで涙を拭って目を合わせた。


「最初に私を『いらない』って言ったのはみんなだよ。そんな場所に私は戻らない。
――私の居場所は、もうここだから」


真っ直ぐに言い切ったなまえは、レギュラー陣に向かって行きましょうと声をかけた。レギュラー陣もキセキを気にすることなく頷き、ゾロゾロとグラウンドへ戻る。

片岡からのお咎めもなく、自然に練習は再開された。



「……遅すぎたのだよ…」


緑間にしてはやけに珍しい声色だった。まるで後悔しているようなそれは、今の緑間の気持ちを充分に表していた。


「なまえはあんなに動いてくれたのにね…。どうして手放してしまったんだろう」


明るい笑顔でノート片手に動き回るなまえを遠目に眺めながら、赤司はかつての自分に酷く怒った。あの日あの時、自分が『いらない』と言わなければ、今もなまえは隣にいたのか、と。


「なまえちん…もう、俺達の所には戻ってきてくれないのかなー…」


辛い練習も、なまえが夜な夜な一生懸命考えてくれたのだと思えば耐えられた。練習嫌いの紫原を励ますのは、いつだってなまえだったのだ。


「…あの美味い飯も、もう食えねぇのか…」


合宿中に栄養バランスがしっかり考えられたご飯は美味しく、何杯もおかわりをした程だ。嫌いなものが多い青峰を考慮して作られたそれを考えるのにも、苦労したに違いないのに。


「謝らせてもくれなかった…なまえっち…」


二階席に座る女の子達に手を振り返し、練習の妨害をする黄瀬。それを柔らかく咎めるなまえにいつだって「ごめん」と言えば、「しょうがないなあ」と許してくれたのに。もう、謝ることさえ出来ない。


「…どうして僕は、何も言えなかったんでしょうか…」


赤司達の様子が可笑しく、次第になまえまで光を失ったような瞳をして。変わってしまったことに気づいていた筈なのに、どうして声を掛けられなかったんだろう。味方になる事くらい出来ただろうに、それを黒子はしなかった。


「…もう、なまえは――」


眩しい光に包まれた野球部を見つめ、赤司はそこで言葉を切った。今更何を言ったって、過去を取り戻せやしない。

なまえの居場所は、青道高校野球部なのだから。





練習が終わり、片付けも終わったなまえはレギュラー陣に駆け寄る。ドロドロバテバテの彼らに瞳をゆるめ、綺麗な礼をした。


「今日は、本当にありがとうございました」
「いや、みょうじになにもなかったのならそれでいい」
「哲は本当に固いなぁ」
「そ、そうか?」


相変わらずなやり取りに笑いが起こる。そこにはなまえの笑い声も含まれていた。


「必要だと言って下さったこと、一生忘れません」


陳腐な言葉だ。けれどそれしか言えなかった。だって一生忘れたくないと思ってしまったのだから。


「これからもよろしく頼むぞ、みょうじ」
「はい!」


力強く託された言葉に、なまえも声を張り上げて頷いた。

目指すは甲子園出場、そして――優勝。

自分に何が出来るかなんて分からない。けれど、力の限り、いやそれ以上に野球部を支えよう。
そう決意して、なまえは照れ臭そうに微笑んだ。