狂ったブラッジャー2

「ハリー、心配するな。私が君の腕を治してやろう」
やめて!


 今一番会いたくない先生、ロックハートが張り切るように袖を捲り上げる。しかし腕をこのままにしたいとハリーは上半身を起こそうとしたが、激痛が走りそれも叶わない。そんなとき、今まで幾度も聞いてきた「カシャッ」という音がこんな時にまで聞こえた。コリンだ。


「ハリー!」


 ロックハートがハリーの側にいるのを見ながら、フィーは必死に走る。ドンっと人に何度も当たるが謝る暇なんてない。今すぐあの男をハリーから放さなければ、あいつは何をしでかすか分からない。
 そんなフィーの焦りも虚しく、ロックハートは杖を振り回し、次の瞬間それをまっすぐハリーの腕に向けた。
 奇妙な気持ちの悪い感覚が肩から始まり、指先までずーっと広がっていった。まるで腕がぺしゃんこになったような感じだ。何が起こったのかハリーはとても見る気になれなくて、目を閉じて顔を背ける。どうやら予想していた最悪の事態が起こったらしい。覗き込んだ者は息を呑み、コリンは狂ったようにシャッターを切る。ようやくフィーが到着した頃には、すべてが終わったあとだった。


「ハリー、ッ…ハリー!」


 泣きそうになりながらフィーが駆け寄ると、ハリーはホッとしたように見上げた。その弱々しい姿に思わずフィーの足取りも止まってしまって、後ろから追いついたハーマイオニーがハリーの背に腕を回す。ロンに行こうと言われてようやく歩き出したフィーだが、ロックハートが骨抜きになったハリーの腕を持ち上げ、ぐにゃりと手首を反対方向に曲げた様を見て、卒倒しそうになった。骨のないそれは簡単に曲がり、手の甲がぺたりとついてしまう。


「あっ…そう。まあね。時にはこんなことも起こりますね。でも、要するにもう骨は折れていない。それが肝心だ。それじゃ、ハリー、医務室まで気をつけて歩いて行きなさい。――あっ、ウィーズリー君、ミス・グレンジャー、ミス・ディオネル、付き添って行ってくれないかね?――マダム・ポンフリーが、その――少し君を――あー――きちんとしてくれるでしょう」


 無責任にもそう言ったロックハートは、ローブを翻して去って行った。――彼はハリーの腕を治したのではない。骨を抜き取ってしまったのだ。

 ――マダム・ポンフリーはおかんむりだった。


「まっすぐにわたしのところに来るべきでした!」


 マダム・ポンフリーは憤慨して、三十分前まではれっきとした腕だったはずのそれを持ち上げた。何度見ても慣れるものではなく、フィーはスススッとハーマイオニーの後ろにさりげなく隠れる。


「骨折ならあっという間に治せますが――骨を元通りに生やすとなると……」
「先生、できますよね?」


 ハリーはすがる思いで、マダム・ポンフリーを見上げた。


「もちろん、できますとも。でも、痛いですよ」


 彼女は恐い顔でそう言うと、パジャマをハリーの方に放ってよこした。「大丈夫ですか?」マダム・ポンフリーは、ハーマイオニーに隠れるように立っているフィーを見つけ、優しく声をかける。すっかり顔色を青くさせていたフィーは、上目で彼女を見上げてこくりと頷いた。


「骨を再生するのは荒療治ですよ」


 そう言いながら、マダム・ポンフリーは『骨生え薬のスケレ・グロ』とラベルの貼ってある大きな瓶をビーカーに傾け、なみなみと注いでハリーに渡した。
 荒療治とは、スケレ・グロを飲むことだ。一口飲むと口の中も喉も焼けつくようで、ハリーは咳込んだりむせたりした。マダム・ポンフリーは、「あんな危険なスポーツ」とか、「能無しの先生」とか、文句を言いながら出て行き、ロンとハーマイオニー、フィーが残ってハリーが水を飲むのを手伝った。


「フィー、貴女顔色が悪いわ」
「へ……」
「ウワァ、君真っ青だぜ」


 ぺたり、とハーマイオニーの手がフィーの頬に触れる。


「今日は早く帰った方がいいわ」
「でも、ハリーが…」
「僕なら大丈夫だよ。フィーは寮に戻って、ちゃんと寝て?」
「…うん、そうするね。ごめんハリー、お大事に」


 にへ、と頼りない笑みで別れを告げ、フィーは寮へと戻る。夕食を食べる気も起きず、部屋に着いてからローブを脱いで椅子に腰かけた。その側をスルスルと白蛇が這い寄って来る。ちろちろと指先を舌で舐められ、擽ったそうにクスクスと笑った。


『フィー様ー、お顔が青いよー?』
『サリン……』
『今日はゆっくり休もー?』


 鎌首を持ち上げたサリンの言葉に、フィーはやんわりと頷いた。


『あとね、フィー様ー』
『ん?』
『あいつが目覚めてるー』


 心底嫌そうに威嚇したサリンを宥める為に、お手製のミニカップケーキを口に放り込んであげた。サリンはカプカプとそれを噛み、またかぱりと口を開ける。もう一個ちょうだいの合図だ。かわいい家族に、フィーはついつい甘くなってしまう。ぽいっともう一つ口に入れてやれば、嬉しそうに口を動かした。


「……誰が目覚めさせたのかなぁ…」
『それはまだぼくにもわかんないー。でもねー、ぼくはフィー様の為なら探すのだって平気だよー!』
『それだとサリンが危険な目に合うでしょ? 却下です』
『えー! やだやだー! フィー様の役に立ちたいー!』
『う……だめ。それにサリン、あの子のこと嫌いでしょう? この事件に関わってたら嫌でもあの子に会うことになるよ?』


 ちょん、と鼻先を指でつつくと、サリンは一瞬悩むそぶりを見せたが、平気だと目を細めてみせた。


『いーのー! ね、ね、いいでしょー?』
『はぁ…まったく、そのおねだりの仕方はどこで覚えてきたんだか…』


 フィーの目には愛くるしい白蛇が赤目をきゅるんとさせている姿が映っている。これで断れる者がいるのなら、ぜひ断ってみてほしい。フィーは切実に思った。


『わかったよ…。ただし、危ないことはしない』
『はーい』
『身の危険が迫ったら、すぐに逃げて私の所に来ること』
『はーい!』
『あの子に喧嘩は売らないこと』
『………』
『返事は?』
『……はーい』
『よし』


 その夜、しもべ妖精のドビーがハリーの下に訪れていたことを知らないフィーは、ベッドの中に潜り込みながらブラッジャーがどうしてハリーだけを襲ったのか、もんもんと考えながら眠りについた。

 コンコン。静かな、丁寧な、しかしどこか焦ったようなノック音が部屋に響いた。もそり、とフィーはわずかに身動きをしたが、それ以上動くことはない。そんな彼女を知っているのか、ノック音はしつこく鳴った。


「ホー」
「ん、んんんー……なにぃ…」


 梟のチェイルが、布団の上をぴょこぴょこと歩きながら鳴く。さすがにこれには起きたのか、フィーは眠そうに目をこすりながら身体を起こした。するとタイミング良くノックの音が鳴り、首を傾げながらぺたりと素足のまま扉へ向かう。ガチャリと開けると、そこには焦った様子のマクゴナガルが立っていた。


「ミネルバ…? どうしたの、こんな時間に…」
「遅いですよフィー!」
「え? え??」
「ああ、フィー、落ち着いて聞いてください」


 そう言いながらもマクゴナガルが焦っていては話もまともに聞けない。フィーはそれを指摘しようと口を開くが、それよりもマクゴナガルの方が早かった。


「――生徒が、とうとう襲われました」


 震えた声で告げられたのは、いったい何の幕開けだったのだろうか。