壁に書かれた文字2

 それから数日、学校中がミセス・ノリスが襲われた話でもちきりだった。フィーはハリー達に話を詳しく聞こうと思ったが、 なぜか三人そろって「なんとなく」と言うので、もう聞くことをやめた。
 文字は相変わらず石壁の上にありありと光を放っていた。その壁の文字を消そうとフィルチが「ミセス・ゴシゴシの魔法万能汚れ落とし」でこすっているのを見かけたが、どうやら効果はないようだった。しかしそのせいで取り締まりは強化され、フレッド達悪戯仕掛け人も最近は表立って悪戯をすることが出来なくなっている。

 ロンの妹、ジニー・ウィーズリーは、ミセス・ノリス事件でひどく心を乱されたようだった。ロンの話では、無類の猫好きらしい。彼は妹を元気づけようと「あんなのはいない方がどんなにせいせいするか」、などと言ってしまい、ジニーは余計に唇を震わせてしまったのだ。


「ねーえ、ハーマイオニー」
「何かしら、フィー」
「ちょっとくらい休憩しようよー、目が疲れちゃうよ?」
「私ならまだ平気よ」
「……もー…」

 事件の後遺症はハーマイオニーにも及んだ。彼女が読書に長い時間を費やすのは、今に始まった事ではないのだが、今やもう読書以外ほとんど何もしていないと言っても過言ではないくらい、ハーマイオニーは図書館にこもりっきり。夜は図書館からたくさんの本を借りてきて談話室で読み耽っている。
 今のように休憩を促しても、彼女が首を縦に振ってくれたためしは一度もなかった。そんなハーマイオニーが何を調べていたのか――わかったのは次の水曜日だった。


「まさか。まだ二十センチも足りないなんて……」
「んー?」


 図書館の奥の方で、ロンは魔法史の宿題の長さを計っていた。ビンズ先生から出された宿題とは、「中世におけるヨーロッパ魔法使い会議」について一メートルの長さの作文を書くことだった。
 ロンはぷりぷりして羊皮紙から手を離した。支えを失った羊皮紙はまたくるりと丸まってしまう。彼はその様をちらりと見た後、「君は?」とフィーに問いかけた。


「わたし? 私はもう終わったよ」
「嘘!?」
「嘘じゃないよ! だって私、魔法史得意だもんね〜」


 えっへん、と得意げに言ってみせたフィー。しかし彼女が得意なのは当たり前だった。なぜならフィー・ディオネルは、その身をもって体験してきたのだから。もはや覚えるなどという次元ではない。


「ハーマイオニーは?」
「もう一メートル四十センチも書いたんだってさ…。しかも細かい字で」
「(相変わらずたくさん書くなぁ…)」
「ハーマイオニーはどこ?」


 ハリーも巻尺を無造作につかんで、自分の宿題の羊皮紙を広げながら聞いた。「どっかあの辺だよ」と、ロンは書棚のあたりを指差した。隣のフィーもため息を吐く。ハーマイオニーのあまりの行動に、呆れているのだ。


「また別の本を探してる。あいつ、クリスマスまでに図書館中の本を読んでしまうつもりじゃないか」
「つもりじゃないよ、絶対読み切る」


 ロンの言葉を訂正するフィー。すると、ハリーは二人に、ジャスティン・フィンチ-フレッチリーが逃げて行ったことを話した。


「なんでそんなこと気にするんだい。僕、あいつ、ちょっと間抜けだって思ってたよ」
「ロン」


 ロンはできるだけ大きい字で宿題を書き殴りながら言った。それを咎めるようにフィーが彼の名前を呼ぶ。


「だってロックハートが偉大だとか、バカバカしいことを言ってたじゃないか……」


 そこまで言って、ロンは口を閉ざした。フィーは顔を上げてロンを見ると、彼は羊皮紙から目を離して書棚の方を見ている。フィーも目を追って見ると、ハーマイオニーが書棚と書棚の間からひょいと現れた。イライラしているようだったが、やっと三人と話す気になったらしい。


「『ホグワーツの歴史』が全部貸し出されてるの」


 ハーマイオニーはハリーとフィーの間に腰かけた。


「(『ホグワーツの歴史』なんて、なんでまたそんなものが?)」
「しかも。あと二週間は予約でいっぱい。わたしのを家に置いてこなけれりゃよかった。残念。でも、ロックハートの本でいっぱいだったから、トランクに入りきらなかったの」
「どうしてその本が欲しいの?」


 フィーも疑問に思ったことを、ハリーが聞いた。


「みんなが借りたがってる理由と同じよ。『秘密の部屋』の伝説を調べたいの」
「それ、なんなの?」


 ハリーは急き込んだ。反対にフィーの心臓はドクリと嫌な音を立てる。


「まさに、その疑問よ。それがどうしても思い出せないの」


 ハーマイオニーは唇を噛んだ。どうやら相当悔しいらしい。


「しかも他のどの本にも書かれてないの――」
「ハーマイオニー、君の作文見せて」


 ハーマイオニーの言葉を遮り、まったく見当違いな頼みをしたのはロンだ。彼は時計を見ながら絶望的な声を出した。


「ダメ。見せられない。提出までに十日もあったじゃない」
「あとたった六センチなんだけどなぁ。いいよ、いいよ……」


 チラッとロンはフィーを見たが、彼女もまた笑顔で首を横に振ったのだった。


「『秘密の部屋』の伝説、か」


 誰にも聞こえないくらいの小さな呟きは、始業のベルとかぶさって掻き消えた。ロンとハーマイオニーはハリーの先に立って、二人で口喧嘩しながら魔法史のクラスに向かった。


「……フィー」
「ん? なーに、ハリー」
「その、えっと……」


 ハリーは悩んでいた。ロンにもハーマイオニーにも聞こえない声が、自分には聞こえたこと。その声を追っていたら、ミセス・ノリスが石になってぶら下がっていてあの現場にたどり着いたこと。けれど、なぜか恐怖心が口を噤ませる。
 ――もし、気味が悪いと思われたら?
 ハリーは『もしも』を考えるたびに、フィーに言えないでいた。


「……まだ、言えない?」
「えっ……」
「三人が私に何かを隠してるのは知ってるよ。なんとなくあそこに行くなんて、有り得ないし」
「あ……、」
「いーよ、待つから」


 にひ、と歯を見せて笑ったフィーに、ハリーはドキリと胸を高鳴らせた。顔が熱くなるのがわかる。どうして?なんて、尋ねたところで答えなんて返ってこないけど、無性に誰かに聞きたかった。


「だけど、いつまでものけもの扱いは嫌だから! ちゃんと話してよね」
「……うんっ!」


 また、一年生の時みたいに、口も利いてくれないような事態になってしまうのかと思った。
 ハリーはホッと息を吐いて、いつの間にか空いていた距離を縮めようとタッと駆け出す。そのとき、フィーのローブのポケットがもぞもぞと動いた気がしたのだが、瞬きをした後もう一度そこを見てみれば、もうポケットは何事もなかったかのように動いてはいなかった。


「(……? 気のせい、かな…?)」


 ハリーは深く考えず、気のせいだと思うことにして今度こそフィーの隣に落ち着いた。

 魔法史は時間割の中で一番退屈な科目だった。担当のカスバート・ビンズ先生は、ただ一人のゴースト先生で、唯一おもしろいのは、先生が毎回黒板を通り抜けてクラスに現れることだった。
 しわしわの骨董品のような先生で、聞くところによれば、自分が死んだことにも気づかなかったらしい。ある日、立ち上がって授業に出かけるとき、生身の体を職員室の暖炉の前の肘掛け椅子にそのまま置き忘れたきたという。

 今日もいつものように退屈だった。フィーは早々に意識を手放し、腕を枕がわりにがっつり眠っている。他の生徒もうつらうつらしては、時々覚醒してノートを取り、また舟を漕ぐという繰り返し。
 だが、先生が三十分も読み上げ続けた頃、今まで一度もなかったことが起きた。ハーマイオニーが手を挙げたのだ(もちろん隣で眠るフィーをきちんと起こして)。
 ビンズ先生はちょうど、一二八九年の国際魔法戦士条約についての、死にそうに退屈な講義の真っ最中だったが、チラッと目を上げ、驚いたように見つめた。フィーも今までこの授業で挙手した生徒など見たことがなく、まだ眠たげな目をこしこしと手の甲でこすってハーマイオニーを見た。


「ミス――あー?」
「グレンジャーです。先生、『秘密の部屋』について何か教えていただけませんか」


 ハーマイオニーははっきりした声で言った。これにはとうとうフィーも眠気と戦っている場合ではなくなった。
 口をポカンと開けて窓の外を眺めていたディーン・トーマスは催眠状態から覚醒したし、両腕を枕にしていたラベンダー・ブラウンは頭を持ち上げ、ネビルの肘は机からガクッと滑り落ちた。
 ビンズ先生は目をパチクリした。


「わたしがお教えしとるのは魔法史です」


 干からびた声で、先生がゼーゼーと言った。次いでチラリとフィーを見たが、彼女はビンズ先生にこくりと頷く。これは「話さなくていい」という意味だ。その意思を間違えることなく汲み取ったビンズ先生は、言葉を続ける。


事実を教えとるのであり、ミス・グレンジャー、神話や伝説ではないんであります」


 先生はコホンとチョークが折れるような小さな音を立てて咳払いし、授業を続けた。フィーも安心したのか、くぁぁ、と大きな口を開けて欠伸をする。


「同じ年の九月、サルジニア魔法使いの小委員会で…」


 先生はここでつっかえた。フィーも呑気に欠伸をしている場合ではなくなった。
 ハーマイオニーの手が、また空中で揺れているのだ。


「ミス・グラント?」
「先生、お願いです。伝説というのは必ず事実に基づいているのではありませんか?」


 ビンズ先生はハーマイオニーをじーっと見つめたあと、「ふむ」と考えた。


「然り、そんなふうにも言えましょう。たぶん。しかしながらです。あなたがおっしゃるところの伝説はといえば、これはまことに人騒がせなものであり、荒唐無稽な話とさえ言えるものであり……」


 いまや、クラス全体がビンズ先生の一言一言に耳を傾けていた。先生は見るともなくぼんやりと生徒を見渡した。どの顔も先生の方を向いている。こんなに興味を示されることなど、かつてなかった先生が完全にまごついていた。
 これは、ハーマイオニーの勝ちだ。フィーは勝手に敗北を認め、助けを求めるようにこちらにさりげなく視線を向けてきたビンズ先生に、先ほどと同じようにこくりと頷いた。今の頷きは「話してもいい」という意味だが、やはり先生はそれを履き違えることなく受け取ったようで、「あー、よろしい」と、噛みしめるように話し始めた。