壁に書かれた文字

「秘密の部屋は開かれたり
継承者の敵よ、気をつけよ」


 窓と窓の間の壁に、高さ三十センチほどの文字が塗りつけられ、松明に照らされてチラチラと鈍い光を放っていた。フィーはその文字をひとしきり眺めると、「なんだ、なんだ? 何事だ?」と肩で人混みを押し分けながらやってきたアーガス・フィルチを目で追う。彼は、松明の腕木に尻尾を絡ませてぶら下がっている自身の飼い猫、ミセス・ノリスの変わり果てた姿を見た途端、恐怖のあまり手で顔を覆い、たじたじと後ずさりした。


「わたしの猫だ! わたしの猫だ! ミセス・ノリスに何が起こったというんだ?」


 パニックを起こし始めたフィルチが、飛び出した目でハリーを見た。


おまえだな! おまえだ! おまえがわたしの猫を殺したんだ! あの子を殺したのはおまえだ! 俺がおまえを殺してやる! 俺が……」
アーガス!


 とんでもないことを口走ろうとしたフィルチを遮ったのは、ダンブルドアだった。数人の先生を従えて現場に到着した彼は、素早くハリー、ロン、ハーマイオニーの脇を通り抜け、ミセス・ノリスを松明の腕木からはずした。


「アーガス、一緒に来なさい。ポッター君、ウィーズリー君、グレンジャーさん。君たちもおいで」


 ダンブルドアが呼びかけ、次いで誰にも見られないようにフィーに目を向け、一つ瞬きをしてみせた。それだけで彼の意図を汲み取ったフィーもまた、瞬きを一つしてみせる。
 そんな中、ロックハートがいそいそと進み出た。


「校長先生、わたくしの部屋が一番近いです――すぐ上です――どうぞご自由に――」
「ありがとう、ギルデロイ」


 人垣が無言のままパッと左右に割れて、一行を通した。ダンブルドアを先頭にロックハート、マクゴナガル、スネイプと続いていくのをフィーは神妙な面持ちで見送り、未だ一言も喋らない生徒の人混みの中をくぐり抜け、フレッドとジョージの元へと戻る。
 まだ二人も放心状態で、監督生の声も飛ばない。しかしこのままここに居ては、明日の授業にも影響するし、何よりこの異様な空気が漂う場に留めさせておくわけにはいかなかった。

 スゥ、と少し多く息を吸ったフィーは、フレッドとジョージに向かって声を張り上げた。


ワッ!
「「ワァッ!?」」


 ビクッと大袈裟なくらいに肩を跳ねさせた二人は、大きく見開いた瞳にフィーを映した。その素っ頓狂な顔にフィーはたまらず噴き出し、ケラケラと笑う。


「あっはは! 変な顔!」
「「フィー〜〜!!」」


 ワァワァと騒ぐ三人に監督生もハッとなり、「列を作って! はぐれないように着いてくるんだ!」と、声を張り上げて先導を始めた。ようやく息づいた場の雰囲気に人知れずホッとしたフィーは、最後にもう一度ダンブルドア達が消えた方へと顔を向け、やがてフレッドとジョージに手を引かれて寮へと足を進めた。

 寮の談話室は夜遅くまで活気付いていた。いや、活気、というより『誰がミセス・ノリスを石にしたのか、誰が壁にあんな不吉な文字を書いたのか』という、いわゆる犯人探しだ。『秘密の部屋』というワードは、それだけ生徒達に影響を与えていた。
 ――影響を受けていたのは、なにも生徒だけではない。


「……秘密の部屋…」


 一人部屋をあてがわれた銀髪の少女もまた、壁の文字や石化したミセス・ノリスのことを考えていた。お風呂にも行かず、彼女は部屋に入るなり贅沢なキングベッドに大の字に寝転んでたわ言のように「秘密の部屋が……」と繰り返す。


「なんで楽しい楽しいハロウィンパーティの日に、こんなことが起こるかなぁ…」


 疲れたように深く息を吐き出し、フィーは目の上に腕を置いて視界を塞いだ。秘密の部屋を開くことなどまずない。というか有り得ないのだ。だって、あの部屋を作った人はもうこの世にいないし、その後継者はホグワーツ城内に入ることなんてもう出来ない。そしてもう一人はフィー。彼女は秘密の部屋を作った人物から、特別に入り方を教えてもらっているのだ。
 ゆえに、今秘密の部屋を開けることができるのは、フィー一人。


「……どうして、ハリー達はあそこにいたんだろう…。『絶命日パーティ』の会場から大広間までは道のりが違うはずなのに……」


 そう、引っかかるのはそこだ。なぜあの三人があそこにいた? 何か理由がなければあんなところには行かないはず。
 頭をフル回転させて思考を巡らせるも、結局これといったものは思い浮かばず、仕方なしにベッドから起き上がってティーセットの用意を始めた。一つ杖を振るえば、勝手に紅茶がティーポットからカップに注がれ、お茶請けまで登場する。ついでに椅子ももう一つ出せば完璧だ。


「おやおや、美味しそうな匂いがしておる」
「アルバス!」


 いきなり現れたのはホグワーツ校長、ダンブルドア。ハリー達の事情聴取が終わり、その足でフィーの部屋までやって来たらしい。
 先ほどの騒ぎの中交わされたアイコンタクトは、こういうことだったのだ。


「ちょうど紅茶も淹れたところだよ、座って」
「ホッホッホ、じゃあ遠慮なくいただこうかの」
「ふふ、今日の紅茶はケニア。夜だし、一騒動あったから濃いめの茶葉を使ってみたの。お茶請けにはスコーンね。ジャムは二種類揃えておいたから、好きな方をつけて食べて」


 説明を受け、ダンブルドアはティーカップに口付けた。じんわりと身体に染み渡る温もりに、目尻がゆるりと下がる。
 その様子を見て安心したフィーもカップに口を寄せた。


「で、どうだったの?」
「どうとは?」
「………、」
「ホッホ、からかってすまなんだ」


 楽しげに笑われては、こちらも怒るに怒れない。仕方なくフィーはスコーンを口に放り投げ、ジャムの甘さを味わった。


「ハリー達が犯人ではない、ということはわかった」
「それは聞かなくたってわかるでしょうに。またセブルスあたりがネチネチ言ってたんじゃないのー?」
「疑わしきは罰せずじゃと言っておいたから、当分の間は大丈夫じゃろうて」
「さすが」


 静かな時間が流れる。荒んだ心が洗われるようだとダンブルドアは思った。
 目の前に座る少女は、果たしてどこまで見えているのだろうと、この大魔法使いとうたわれるアルバス・ダンブルドアでもふとしたときに気になってしまう。


「……今回、私にも何もわからない」


 ぽつりと、言葉をこぼすフィー。その声色を聞いて心配したのか、梟のチェイルがホー、と一鳴きした。部屋にこもる鳴き声に反応したのは、白蛇のサリン。彼はポケットから出てスルスルとフィーの腕をのぼり、とぐろを巻くように首元に巻き付いた。


「久しぶりに会ったのう、サリンや」
「シャー(ひさしぶりーアルバス)
「久しぶり、だって」
「相変わらず、見事に白いのう」
「つるつるで、手触りもいいんだよ」


 小さな頭をちょいちょいと指先で撫でると、サリンは気持ちよさそうに目を細めた。愛らしい姿にフィーの心も穏やかになる。
 フィーがパーセルタングを使えることは、ダンブルドアは昔から知っている。彼女が長い時間をかけて話せるようになったのは、他でもないサリンの為なのだから。


「アーガスの猫は治す算段がついての」
「ほんと! よかった…」
「スプラウト先生が、最近やっとマンドレイクを手に入れられてのう、回復薬を作ってもらうことにしたのじゃ」
「ポモーナが……。それなら安心だね」


 ひとまず嬉しい知らせを聞いたからか、柔らかく笑んだフィー。だが、やはり目覚ましい情報は得られていないのだそう。


「“継承者”だなんて大胆なことを言ってのけるくらいだから、今回の犯人は相当厄介だってことは言うまでもないけど……。でも、『秘密の部屋』関連の継承者と言えば、ホグワーツ創始者の一人――サラザール・スリザリン」


 そして、その継承者は――。


「…ありえない、このホグワーツに足を踏み入れることなんて出来やしないわ。……そう、断言できたらいいんだけど」


 苦い表情を浮かべたフィーは紅茶を飲み、もやもやする胸中を鎮めるようにスコーンに手を伸ばした。
 彼女の様子に、ダンブルドアはしばらく考えるようにジッとフィーを見つめたが、結局何も言うことなく立ち上がった。


「もう帰るの?」
「明日も早いじゃろう。誰かさんが寝坊してしまってはいけないからのう」
「ねっ、寝坊なんてしないよ! 私を幾つだと思ってるのさ!」
「はて、君はホグワーツの二年生ではなかったかの?」
「……そうでした………」


 確かに、そう言われてしまえば元も子もない。明日ももちろん授業がある。チラッと時計を見てみれば、針はもうすぐ午前零時を指そうとしていた。


「じゃあ、また何かあったら手紙飛ばすね」
「たまには校長室においで。先日マグルの“行列が出来るケーキ屋さん”で、美味しいケーキを買ってきたのじゃ」
「わぁ! 絶対行くね! それまで保存しててね」


 次の約束を取り付け、その日はお開きとなった。フィーはカップに残った紅茶を飲み干し(スコーンはちゃっかりダンブルドアが持って帰った)、さっさとシャワーを浴びて布団に潜り込んだ。