あのバンド、久しぶりに新譜出したね。ネズはもう聴いた?
 右手が無意識にスマホに走らせた文字に気付いて、ぶんぶんと左右に頭を振る。何をやってるんだ私は。もう連絡しないって決めたはずじゃないか。半年も経つのに何かしら理由を付けては度々メッセージを送ったりなんかして、女々しいったらない。ふーっと大きく深呼吸をすれば、気持ちが落ち着く代わりに周りが見えるようになって、店内の有線放送が耳に流れ込んでくる。不幸にもネズの曲が掛かっていて、再び顔を顰めた。

 画面に映る過去の言葉たちが恨めしかった。一体いつになればこの履歴を消せるのか。他愛もないきっかけで始まるやり取りは二、三往復しては潰えて、しばらくしてまた始まる。殆どが私からだったが、時折ネズから話しかけてくることもあるのだから、妙な期待が膨らんでは消えて、膨らんでは消えてを繰り返す。几帳面に毎度返信してくるネズもネズだ。無視してくれれば私だって諦められるのに。
 そこまで考えて、自分に苛立ちが募る。なにが諦められる、だ。別れ話を始めたのは自分のくせに。覚悟も無しにネズを試すようなことするからこうなったんだ。今思えばちょっとしたすれ違いが続いただけだった。不安に押し潰されそうになって、別れた方がいいのかな、と伝えた私に対し、そうですか、とただ一言だけ放ったネズの薄い唇を思い出す。愛を確かめたいだけの浅はかな行為だと気付いていたからこそ、その時は怖くて怖くて、まともに目が見れなかった。だから彼がどんな顔をしていたかは知らない。時間と共に形を変えた記憶の中のネズは、呆れたような、幻滅したような、光のない青磁色の瞳で私を見る。
 打ち込んだ文字を一気に消して、アプリを閉じる。いつの間にかBGMは変わっていた。冷たくなったコーヒーをこれ以上飲む気にはなれなくて、カップにたっぷり残したまま店を後にした。

 未練一色の頭を切り替えたくて、手当たり次第に目に付いたお店に入ったはずなのに、ブティックで気になる洋服を手に取ればネズの好みに合うかなだとか、本屋で好きな小説家のコーナーに立ち寄れば勧めたあの本は貸したままだったなだとか、どこにいてもネズの痕跡を探してしまう。考えないようにしようとすればするほど、あの猫背が、白い頬が、自分より長くて羨ましい睫毛が、鮮明に思い出されてしまって途方に暮れる。さっき聴こえてきたネズの歌声が頭を揺らしていつまでも消えない。
 思い出から逃げることに疲れてしまって、噴水の縁に腰を下ろした。この瞬間でさえ、ここで一緒に音楽を聴いたなあなんて思い出される。私、知っていたんだよ。ヘッドフォン派のあなたがイヤフォンを使うのは、私といる時だけだったてこと。聴いてる曲教えてっていっつも私がせがむから、いつでも一緒に聴けるようにしてくれてたんでしょう。優しいネズ。不器用なネズ。私は馬鹿だなあ……
 もうこうなったら諦めることを諦めるしかないのかも、いつかその時が来たら立ち直れるはず、と自分に言い訳をして、さっき消した文章を打ち直す。何度も読み直して、おかしくないかを確認する。連絡する時点で未練がましい、いや友達としてなら有り得ない内容じゃない、そもそも友達なんだろうかと頭の中で色々な自分が押し問答をしている中、えいと送信ボタンをタップすれば、騒がしかった気持ちが消えていく。それはね、ずうっと連絡したくて仕方なかったかったからだよ、と意地悪そうな私が囁いた。

 気付けばもう夕方で、ここで呆けていてもどうにもならないと腰を上げると、スマホが震えて心臓が飛び跳ねた。立ち上がったその場のまま、メッセージを開く。『聴きましたよ』たったそれだけの内容なのに、ばくばくと鼓動が止まらない。どうしよう、なんて返そう。まさかこんなに早く返事が来るなんて。

『シュートシティに来てて、ちょうど今レコ屋で手に入れてきたとこです』
『オマエの好きそうなベースラインで始まりますね』

 どうしたらさり気なく、でも長く会話ができるだろうと考えあぐねているところへの立て続けの通知に、これ以上ないくらい胸が騒ぐ。私のこと、思い出してくれてたの?叫び出したい気持ちを飲み込んで、画面に指を滑らす。

『そうなの! 周りで聴いてる人少なくて、誰かと話したいなって思ってて』

 わざとらしかっただろうか。ああもう! いい大人がメッセージひとつに一喜一憂してるなんて、スクール生でもあるまいし。

『まだシュートシティに住んでるんでしょう? 一杯飲みながら話すのはどうですか』

 都合良く見間違えてるんじゃないかと目を疑った。あくまで冷静に見えるように、震える指で短く了承を伝えると、まだ付き合っていた頃によく行った、パブの名前が送られてきた。

 久しぶりにネズに会う。店を前に、迅る気持ちを抑えるように胸を数回叩く。短く細い呼吸で息を整えて店内へ足を踏み入れる。カウンターの奥、窓際のテーブル席からネズが片手を挙げた。いつもの席でこちらを見るその姿は何にも変わってなくて、あの時からちっとも時間が経ってないんじゃないかと勘違いしそうになる。

「や、久しぶり」

 1パイントのエールを購入し、向かいの席に腰を下ろす。

「元気そうでなりより」
「ネズも」

 ネズがグラスを少し持ち上げるのに合わせて、私もグラスを傾ける。新譜のこと以外にも、話したいことは山ほどあった。新しく任された仕事のこと。進化したのにおしゃぶりが辞められないストリンダーのこと。ネズはネズで、今年のジムチャレンジャーのことや妹の成長ぶりと話題に事欠かない。良かった。予想してたよりもちゃんと話せてる。

「最近うちに売り込みに来た連中に、これまた良い曲書きやがるバンドがいましてね」

 聴きたい、と私が口にする前に、ネズが片方のイヤーピースを差し出してきた。黙って受け取って耳に嵌めると、静かなメロディにハイハットが響いてくる。目を伏せて耳をすませる。少し掠れ気味の女性ボーカルが歌うのはかつての恋人への後悔。

「良い曲ね」

 ゆっくりと顔を上げて、最初に目に入ったのはネズの薄い唇。きちんと目を、見なくては。半年ぶりに合わせた瞳は、私の記憶が作り上げたものとは全然違った。

「なあ、なまえ、オマエはどう過ごしてました」
「ずっとネズに会いたくてしょうがなかった」

 瞬きも出来ないくらいに切なく揺らぐ、深い湖のような青磁色の瞳は私を捉えて離さない。躊躇う暇も、意地を張った答えを考える余裕もない。涙を堪えるので精一杯だ。

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