じゃあ委員長、これよろしく。そういって目の前に積まれたノートの山は、うず高くどこまでも続いているようにさえ見えた。はあ、とお腹の底から溜め息が出る。持ち上げると、それは私の顎くらいまでの高さがあって、ぐらぐらと揺れた。

足元が見えなくて、そろりそろりと注意を払いながら階段を下りる。言われたとおり、英語準備室までやって来て中へ入ろうとした時、両手が塞がって、戸を開けられないことに気が付いた。あ、と小さく声が出た。スライド式のスチール扉とにらみ合う。念力が使えるわけもないので、いくらにらもうとびくともしない扉は、鈍い光を反射して私を見降ろしていた。細長く設置された曇りガラスからは中の蛍光灯の光も、人の気配も窺えない。先生、と一応中に呼び掛けてみる。やはり返事は返ってこない。自力で開けるしかないようだ。かといってクラス全員分のノートを片手で支えるのは難しい。閑散とした廊下には、ノートを置くことのできる台など見当たらない。

左足に体重を掛けて右足を直角に上げる。太ももにノートを乗せ、自由になった右手を扉に伸ばす。ぐらぐらと揺れてなかなか手が届かない。ノートの山が崩れそうになる。両側で編んだ三つ編みが頬に当たり、眼鏡がずり落ちているのが気になった。窓の外からは友達や恋人とじゃれ合い、笑いながら帰る声、部活動に勤しむ声が聞こえてくる。放課後の廊下、それも準備室の並ぶ三階の廊下は人気が無く、一人こうしている私の姿を思い浮かべるとなんだか無様で、悲しくなった。体重の掛け方を変えつつバランスをとることに必死になっていると、ガラリ、と横で扉がスライドする音がした。


「ほら、開いたぞ」


右手をノートに添えて、両足で立ち直す。振り向くと、そこには男子生徒が立っていた。Z組の学級委員長、名前は桂君だ。桂小太郎君。彼の長髪を見て、学年報告会でその長髪を切る・切らないの論争を繰り広げていたこと、ヅラと呼ばれる度に桂です、と几帳面に言い返していたことを思い出す。


「あっ…、ありがとう」


薄暗い部屋の中へ入り、奥に備え付けられた机の上へノートを置く。仕事を終え準備室を出ると、右手の壁に桂君が背中を預けて腕を組んでいた。…もしかして、私が出て来るのを待っていたのだろうか?


「おいみょうじ、」
「え、あ、はい!」
「今、時間あるか?」










なら、ちょっとついて来てくれ。そう言って桂君が私を連れてきたのは屋上。少しやってくるのが遅くなった夕方は、青空の端々に赤紫を射し込んでいた。屋上に取り付けられたベンチには手を叩いて笑う生徒や、愛を深めるカップルの姿がまばらに散っている。


「誰かに頼ってもよかったんじゃないか?」


それが私に向けられたものだと気付くのに、一瞬間が空いた。


「え?」
「クラスメイトに頼んで半分持ってもらうとか、出来ただろう」


ノートのことを言っているのだ。


「みんな忙しいみたいだから」


本当はそうじゃないことを私は知っている。きっと手伝う時間くらいあるんだ。でも面倒だから、誰も自分からは手伝おうかなんて言わない。私からも手伝ってなんて言わない。厭な顔をされるのが怖いから。


「だが、」
「あ、委員長いたいた!」


桂君が言いかけた言葉は、背後から掛けられた声に遮られた。その声の主の男子生徒は私のクラスメートだった。ノート片手にこちらに駆けてくる。


「探したぜ委員長〜。コレさ、出し忘れてたんだけど、提出お願い!」


ずい、と差し出されたノート。溜め息を飲み込みながら、それを受け取ろうと手を伸ばす。もちろん、笑顔は忘れない。


「良い――」
「断る」


キッパリとした拒否の言葉が私の声に被さった。びっくりして隣の桂君を見上げれば、男子生徒も驚いた様子で彼を見ていた。


「あの、桂君、私なら別に…」
「こいつは今忙しい。それくらい自分でやったらどうだ」


私のことは聞こえない様子で、桂君は涼しい顔のまま、ノートを押し返した。


「あ、えっと…そうだよ、な!ごめん、委員長!」


じゃあ、とだけ告げてそそくさと退散しようとした男子生徒の背中を、「ちょっと待て」と桂君は呼び止めた。恐る恐る振り返る彼の様子が、ちょっと面白い。


「こいつは委員長じゃない、みょうじだ」


何を言うのかと思ったら。分かりました、というのを態度に示すかのように「バイバイ、みょうじ」と手を振って屋上のドアの向こうへ消えた男子生徒の姿に、なんだか胸がスッキリした。

『委員長はしっかりしてるから』『委員長は頼りになるなあ』そう言われると何も断れなくなる。そうして積み上がる頼まれ事、面倒事、プレッシャー。みんなニックネームみたいに私を委員長と呼ぶけど、私の名前、ちゃんと覚えてる?
いつの間にか胸に支えていた、そんな気持ちを、桂君はいとも簡単な一言で取っ払ってくれた。


「委員長じゃない、みょうじだ…」


復唱してみると、ふふっと笑いが込み上げた。


「桂君の決めゼリフだよね、ソレ」
「そう、だな」


フェンスに近付いて、校庭を眺める。同様に歩み寄る桂君を目の端で捉えた。屋上へ吹き上げる風が心地良い。深く息を吸うと、隣ではそれよりも深くお腹に吸い込むかのような、スゥッという呼吸が聞こえて――


「ヅラじゃなァァァァい!桂だァァァァ!!」


突然、フェンスの向こうの開けた空へ、大口を開けて叫んだ桂君に目を見開く。周りで談笑していた生徒たちもピタリと静かになり、何事かとこちらを見ている。いきなりどうしちゃったんだ、この人。上半身を彼から離れた方へ寄せている私に、桂君は何事もなかったかのような相変わらずの涼しい顔で振り向いた。


「ハイ」


ハイって………何が?


「次はおまえの番だ、みょうじ」
「えっ…ええェェェェ!?」
「思い切り叫べば良い!フハハ!」
「無理です、無理」
「?何を遠慮しているのだ」


遠慮なんてこれっぽっちもしていない。しかし、さあ早く、と促す視線が突き刺さる。同時に興味津々な周りの目も、正直かなり痛い。しかし、少しウキウキしたような桂君の無邪気な目からは逃れられそうにもなかった。


「いっ…委員長じゃない…っ、みょうじだぁー…」


溢れる羞恥心を堪えてそう言うも、桂君はいかにも不満そうに深く眉間に皺を寄せている。


「声が小さいじゃないか。そんなんじゃ人の心を揺さぶることは出来ないぞ」


今まさに、私の心が恥ずかしさで揺さぶられていることはお構い無しなのようだ。


「ほら、もう一回!」
「委員長じゃない…っ!みょうじだー…!!」
「まだまだァ!おまえならやれる!更なる高みをめざせ!」
「え?は、はい!」


桂君の熱血ぶりに飲み込まれたのか気圧されたのか侵蝕されたのか。多分、ランナーズ・ハイみたいな状態なのかもしれない。好奇の目はいつの間にか気にならなくなっていて、今や屋上は二人の為に存在していた。


「大きく腹に息を吸い込んで〜」
「スゥゥゥウウ」
「解き放つ!」
「委員長じゃなァァァァい!っ、みょうじだァァァァァァァァ!!」


こんな大きな声で叫んだの、いつぶりだっけ?私の放った言葉は、河原で投げる小石みたいに、すごく遠くへ飛んでいったようにに思えた。グラウンド上空で反響しながら消えていく声を二人の目が追いかける。

ポフ、とやや放心状態の頭に柔らかい感触がして隣を見上げれば、桂君の細めた目が私を見つめていた。


「よく出来ました」


そのまま乗せられた手が、頭をなでる。なぜだろう。その手がとても気持ちが良い。二・三度往復した手が放れていくのがちょっと寂しかった。ヘアゴムを引き抜くと、両側で揺れていた三つ編みが解けて、ゆるりと広がる。癖が残っておかしなウェーブが掛かっていたけど、風に乗る髪は気持ちの良いものだった。


「言いたいことは、ちゃんと言うんだぞ」


頷く私に、「うむ、よろしい」と彼の口は満足そうな弧を描く。桂君の真っ直ぐな髪もゆるやかに風に揺れていた。


(100711)

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