まだ夜が明けるか明けないかだというのに鳴ったインターホンは、リビングにやたらと大きく響いた。布団から抜け出し、ドアを開けるが、訪問者は招き入れない。どうせすぐ、立ち去るんでしょう?
「誰かも確認せずに開けるな。不用心であろう」
だって、あなただと分かっていた。
「こんな時間に来る傍迷惑な人は、小太郎くらいよ」
「すまないな」
思った以上に冷たい外気を吸い込んで、身震いをする。肩掛けをきつく巻き付けて、重い体を玄関に預けた。
「行くのね」
「ああ」
ああ、だなんて味気ない返答をしただけで、彼はそれ以上何か口にする素振りすら見せない。何を期待しているの?私、帰ってこられるのか分からないような場所へ行こうとする男に、「いってらっしゃい」といじらしく言える女じゃない。
「早く帰ってきなさいね。女を待たせるなんて駄目な男のする事よ」
餞の言葉を投げ掛けながら彼に背を向ける。すると今度はすぐ、彼は口を開いた。
「今度ばかりは、生きて帰れるか分からない」
部屋へ引き返そうとしていた私の背中に、頭では理解していたつもりのその言葉は、重くのし掛かってきた。嘘だとしても、口約束くらいくれても良いじゃない。腹を括った男は、こうも無粋になるんだろうか。あ、違う。彼はそういう男だ。どこまでも、くそ真面目な男。
「分かっていて行くなんて、馬鹿ね」
分かっていて、泣き縋ってでも、「行かないで」と引き留めない私も馬鹿だけど。
「行かなければ、多くを失ってしまうのだ」
振り返ると、玄関先に立ったままでいたはずの彼は、いつの間にか驚くくらい側に居た。入って良いなんて、言ってない。延ばされた彼の手が、私の腫れた瞼に触れないよう、上手く開かない目で睨み付けて牽制する。
「俺は、命に代えてでも大事なものを守りたい」
彼の視線が痛い程に突き刺さる。止める気なんて、毛頭持ち合わせていないから安心して。
「でもね、私、我が儘なの」
夜明けが近い。彼はもうすぐ、行ってしまう。
「小太郎の命一つじゃ満足出来ない。だから、生きて戻って、一生使って私を喜ばせなさいよね」
これ以上耐えられそうになくて顔を背ける。横顔ならせめて、気丈に笑っているように見えるだろうか。
「言われなくても端からそのつもりだ」
小さく鼻で笑う声がする。いつもの、不敵で、小憎たらしい彼の笑い方。良かった。やっぱり私たち、こうでなくちゃ。彼の肩越しに空が白んできた。ほら、行く時間よ。
(100407)
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