カイ | ナノ




「おちた……」

ちゃりんと音を立てて床を滑るキーホルダーに、ポツリと零す。爪先に触れたそれは、チェーンの留め具が歪んで外れていた。長いこと使っていたものだ。限界だったのだろう。時間と愛着が比例してきた分、何の前触れもなくそれを切り取られてしまうのは、どことなく寂寥感が湧く。ふう、と浅く息を吐き出した後、キーホルダーをテーブルの上に置いた。今日の仕事の帰りにでも、新しいキーホルダーを買おう。バッグの中身をひと通り見て、あと財布を入れればいいことを確認した。
同時に、聞き慣れた声が鼓膜にふれる。

「いつも使ってる地下鉄、人身事故があったんだってね」
「! ああ、うん、びっくりしちゃった」

バッグの中に財布を入れていた私に、Nはテーブルに放り出された新聞を眺めながら呟いた。昨日は結局家まで送ってもらってしまった。そのお礼に、夕飯を食べていかないかと誘ったのだ。大したものは作れないが、久しぶりにまともに料理を作る良い機会にもなった。……普段は1人なので簡易に済ましてしまうぶん、少しだけ新鮮でもあった。

それに、彼は私を家に送り届けたばかりにまだ宿を取っていなかった。野宿は旅をしているから慣れている、と笑ったが、凩が容赦なく肌を打つ季節に外にいたら風邪を引いてしまう。夜は特にそうだ。ほんの僅か迷った後に、私の家で良ければ、とそのまま引き止めたのだ。
もちろんそれを口に出すまでは、恋人でもない男性を無闇に泊めるのことには多少の抵抗があった。世間体もあるし、モラルの問題もある。だが、これほど手助けをしてくれた人間を放っておくことは良心が痛んだ。何より彼自身にそういった不安を抱くこと自体が甚だ失礼なことだろう。今までこの家には何度も上げているのだから、今更何かを心配する必要はない。
半ば無理やり納得させる形で、彼を引き止めたのだ。

彼は話題を切り出したわりに、その表情はひどく詰まらなそうに新聞の文字を追っている。綺麗に整列した文字の隣には、ゴシック体で大きく「地下鉄で自殺未遂か」と如何にも煽るようなタイトルがふてぶてしく鎮座していた。軽く目を通した程度だが、駅員の誰かがホームから落ちたらしい。確か、車掌だっただろうか。
そんなことよりも、あと20分ほどしたら家を出なければならない。早く準備をしなければ。事故は昨日起きたばかりだ。万が一ダイヤが変更されていて、いつも乗っている時間の列車がなかったら、遅刻してしまう。意識に指をかける小さな不安を掻き抱きながら、急かされるように立ち上がった。

「今日は早めに家を出るね」
「もう行くのかい?」
「うん、地下鉄のダイヤが気になるし、仕事も遅刻したくないから。心配だから、もう行くね」
「そっか。ならボクもそろそろ失礼するよ」
「!」

立ち上がる姿に、彼もまたこの家から発とうとしているのだと気付いた。その様子を見て、ふと、引き止めるように口を開く。丸くなる湖面の瞳に、小さく笑いながら言葉を続けた。

「別にここで休んでてもいいよ。宿はまだ借りてないんでしょ?」
「あ……ああ、うん、そうだね。まだかな」

どこか言葉を濁すように、彼は曖昧に答えた。それに違和感を覚えながらも、再度休んでいくよう言葉をかける。彼は戸惑いとも遠慮とも取れるような薄い笑みを浮かべながら、頭を振った。うっすらとその顔に浮かぶ疲労の色に、眉をひそめる。

「ボクなら大丈夫だから」
「まだ早い時間だし、私に合わせることないよ」
「……ああ、そうか。そうだね、あまり朝早くにボクが家から出ていったら変な誤解をされてしまうからね」
「別にそんなつもりで言ったんじゃないよ」
「……」
「顔色あまり良くないよ。昨日はあまり眠れなかった?」
「平気、大丈夫だよ。……ごめんよ」
「休んで楽になったら黙って出て行って大丈夫だから。倒れたりしたら大変でしょ。気を使う必要なんてないから、ちゃんと休んで」
「……ごめん」

眉を下げ、彼は力無く言葉を紡いだ。次いで新聞から手を離し、ソファーの背もたれに体を沈める。視線は意図的に私からそらされたようだった。萌黄色の髪が湖面の瞳に影を落とす。その暗がりを茫洋と眺めながら、私はバッグを肩に掛けた。肩に食い込む重みを握り締め、顔に笑みを貼り付ける。

「留守番よろしくね」
「いってらっしゃい」

閉まるドアと共に、その向こう側に消えていく彼を見た。
どこか影を孕んだ表情に、私は少しだけ不安を覚えた。





駅に着き、電光掲示板を慎重に目でなぞっていく。どうやらダイヤの変更はないらしい。いつもより早く出たため、1本早い時間のものにも乗れそうだ。そんなことをつらつらと考えながら、ホームへ向かうために階段を降りていく。
朝という時間帯故に、すれ違う人の数が多い。ざらざらと鼓膜を舐めるノイズに小さな頭痛を覚えながら、私は最後の1段を降りきった。

「落ちたんだよ、ノボリ」
「!」

すると何の前触れもなく、ノイズを掻き分けよく通る声が鼓膜に突き刺さる。反射的にビクリと肩が震えた。おもむろに視線を声の方へ向けると、そこには白を基調とした制服を身に纏う男性がいた。車掌だ。昨日の。昨日、こちらを見ていたあの青年だ。
ここの車掌は双子だと聞いている。おそらくその弟だろう。弟であるこの青年とは会話したことはない。しかし兄の方とは、ここの地下鉄を利用する際、定期を作る時に、親切に案内されたことが一度だけあった。しかしそれは、私が一方的になんとなく相手を覚えている程度の話だ。取るにならない、スタッフと客のやり取りだ。

その視線を追う限り、彼は私に言葉を投げかけたのは確かだった。言葉の意味が理解できず思わず眉をひそめる。

「あの、それは……」
「ノボリ、君と目が合ったんだよ」
「え……?」
「君、笑ってから。だからすごく不思議。だってノボリは嫌いだった」

ノボリ、とは兄の方だろうか。脳裏に目の前にいる男性とは対照的な、黒衣の男性が浮かび上がる。話が理解できずに眉をひそめる私に、彼は構わず続けた。

「落ちたんだよ。新聞は『モンスターボールを拾おうとして誤って転落』なんて書いてるけど。自分から落ちたんだよ」
「……」
「ノボリ、きっと落ちてみたかったんだね」

白い車掌の灰白色の瞳から、冷めるように感情が引いていく。一方的に紡がれる言葉に、私は言いようのない不快感に襲われた。ジワリと熱を持った胃からすえた匂いが込み上げる。

「落ちたらどうなるんだろう。ノボリ、いつも羨ましそうに見てたよ。だから落ちてみたかったんだよ。落ちたらどこに行けるのか、知りたかったんだよ」

声が延々と木霊して聞こえた。心臓にひたひたと冷えた焦燥が触れる。ひどく気持ち悪い。吐き気がする。
ふと、列車が来るというアナウンスが響き渡った。遠くから列車が来る。地鳴りがする。
――落ちたら、どうなるのだろう。答えは決まってる。死或いはそれに限り無く近い状態だ。
先日の、Nを突き落とす妄想が脳裏をよぎった。
呼吸が震える。

「だって君、落ちたのに戻ってきたじゃない」

列車が停車する。風によりコートが大きく翻った。空気の抜けるような音と共にドアが開く。目の前の男性はゾッとするほど模造的な笑みを浮かべていた。私は反射的に、踵を返す。気持ち悪い。意味が分からない。頭が痛い。うるさい。知らない。知らない。わからない。うるさい。心臓がバクバクと鳴っていた。

そして私は、逃げるように電車に乗り込んだ。

ドアが閉まる。道化のように笑みを浮かべた男性は、ただ私を見ていた。無意識に荒くなっていた息を、宥めるように深呼吸を繰り返す。
電車の中は空いていた。荷物を抱きかかえたまま椅子に座り込む。

わからない。私になんか関係ない。理解できない。必要ない。

「あ……」

朝食の片付けを忘れた。思考はいとも簡単にシフトした。




20111019
修正:20111023