カイ | ナノ




『真っ赤なんです』
『アネモネみたいに』
『折れたアネモネの花みたいに、綺麗ですよね』

ステレオタイプの世の中では、異物は一際その異端さで野次馬を魅了する。砂糖に蟻が群がるように集まってくる心無い野次馬の好奇心に、急速に何かが冷めていった。
ザワザワと気持ち悪いノイズの中でそんなことを言ったのは誰だったのか。いや、偶然すぐそばにいた人間だったことは覚えている。

『人が死ぬ瞬間を見たことはありますか』

嫌と言うほどある。いつも別の場所で死んでくれと、死体を見るたび思う。このあとのダイヤも狂ってしまった。後片付けも面倒だ。その列車は回送に回さなければならない。急停車した列車の先に付着した赤黒い血は、ドロドロと線路に流れていた。駅員たちや警察たちが慌ただしく人混みを避けてやってくる。
流動する人の気配を感じながら、おもむろに傍らにいる人間に視線を落とした。
――ああ、飛び降りたのは、貴女様ではなかったのですね。
傍らにいた女性を見て、茫洋と思った。彼女は、飛び降りた人間と変わらない目をしている。

その日から、私は思い出すことをやめた。






「酔ってしまった?」
「!」

ホームのコンクリートを踵で蹴ると同時に、唐突に声が耳朶を打った。一度足を止めると、斜め後ろに立つNが僅かに表情を曇らせる。私は空き缶を側にあるゴミ箱に放り投げながら、「どうしたの」と、白々しい返答をした。ホームを吹き抜ける風が、嫌に冷たい。

「ずっと黙っていたから。具合、悪いのかい?」
「あ……ああ、大丈夫。ちょっと考えてただけ」
「……病院で何かあったのかい?」

まるで探るように、彼は慎重にそう言葉を嘯いた。しかしその表情は迷子の子供のように不安を宿している。私より高い位置にあるはずの瞳が、やけに幼く映った。アンバランスな言動に僅かな違和感を感じながらも、私は何もないと首を振る。
自身の中に根を張った歪な羨望に、気付かれないように奥歯を噛みしめた。
――それは、誰だって一度は抱く「死」に対する憧憬だ。
例えば高層から下を眺めたとき、転落死を妄想する。否応なしに、見下ろした光景の先には「死」が鎮座しているのだ。俯瞰の風景とは、麻薬に似てる。きっと、取り憑かれてしまったら逃れることはできない。ただひたすらに、落ちていく。
落ちて、堕ちて、墜ちて、真っ赤な中身を飛び散らせながら、ガラクタのように器は壊れるのだろう。
それを彼に見てしまった自分に、ゾッとしたのだ。抱えた荷物を締め付けるように手に力を入れた。思考を振り払うように、私は一度目を伏せた。

「K」と彼に呼ばれ、落としていた視線を持ち上げる。カラン、と乾いた音とともに、彼もまた空き缶をゴミ箱に放り投げた。……まだ、中身が残っている。缶の口から流れ出す、甘い香りと液体に、僅かに胸中が軋んだ。また、甘すぎて飲みきれなかったのだろうか。だったら甘くないものを選べば良かったのに。思いながら、彼の次の言葉を待った。

「Kは甘いものが好きだね」
「あ……うん」
「糖分は疲れた時に摂取したくなるって、前誰かに聞いたよ。最近仕事で無理してるじゃないのかい?」
「別にそこまで疲れてる気はしないよ」
「定期落としたり、ぼうっとしたりしてるだろ」
「ごめんね。迷惑ばかりかけちゃって」
「あ……ごめん。そういうつもりで、言ったんじゃないんだ。ただ、心配で」
「ありがとう」

そっと目を細める彼の表情は穏やかだった。それにより、内側でくすぶる罪悪感がさらに膨張する。振り払いきれない黒い靄に、耳鳴りがした。
まるで、私ばかりが汚泥を塗り固めていくようだった。
普通に生きてきたはずだった。平凡で、抑揚に欠けていて、平坦で、詰まらない。事故は、運が悪かっただけだ。しかし記憶の欠損は思いのほか、今の私の平穏を脅かしているのかもしれない。不安も、得体の知れない衝動も、罪悪感も、私は抱いたきっかけを知らない。もしもそれが空白の時間に由来するのなら、理不尽とすら思える。
――或いはそれが、私が『それ』を無くした理由なのだろうか。
思い出さない方が倖せなこともある。そうあの医師は言っていた。しかしそれは、果たして本当に倖せなのだろうか。仮初めに過ぎない穏やか日常は、不安や雑踏に踏み荒らされる毎日は、本当に倖せなのだろうか。

Nの横顔を見ながら、私はふと、意識に何かが引っ掛かるのを感じた。風が吹き抜け、彼の萌黄の髪が大きく踊る。そのあわいで揺れる湖面の瞳が、記憶の奥に貼り付いた赤を掠めた。

「今日……」
「!」

無意識に口を吐く言葉に、彼は瞳を瞬かせる。ゴミ箱の前で止めていた足を、ゆっくりと階段に向けて進めた。階段を3段上ったところで、私はどこか躊躇いを感じながらも言葉を続けた。

「病院で、Nに似た人を見かけたんだ」
「ボクに?」

うん。そう。Nに、なんとなく似てた気がした。顔はよく見てないけど。
また1段上る。もう1段上ろうとして、踵を鳴らして立ち止まった。後ろを振り返る。まだ1段も上らず、1番下から私を見上げている彼を見下ろした。既視感。心臓がざわついた。

「……なんだか、びっくりだ。ボクに似てる人、いるんだね」
「うん。男の人だった。車椅子に乗ってて、まだ昏睡状態なのに、病室からいなくなってたんだって」
「……変な話だね」
「でも、目が合った気がしたんだ。その人、Nと同じ髪色で、赤い目をしてた」
「――ッ!」

Nの湖面の瞳が凍り付く。見開いたそれが凍った水面のように私を乱反射した。ただでさえ色素に乏しい彼から、さらに熱が冷めるように血の気が引いていく。
頭の中で、彼を試している自分がその顔に満足そうに嘲笑った。
何故そんなことを抱いたのかはわからない。自分の知らない何かが、思考の片隅で笑い声を上げた。
そして漸く感情が抜け落ちた瞳で私を見る彼に、我に返る。ぎこちない空気に身を強ばらせながら、取り繕うように言葉を紡いだ。

「あ……き、綺麗な人だったから、なんとなく、今思い出して」
「!」
「変な話してごめんね」
「いや。気にしてないよ」

それより早く帰ろう。苦笑混じりに呟いた彼はゆっくりと階段を登り始めた。そして私の隣で一度立ち止まった彼は、空いている私の左手に彼の指先を絡める。何故手を繋ぐのか、拙い疑問が一度頭をよぎるが、それを黙殺して歩き出す。しかし階段を上りきると手は切り離され、改札を抜けた。

「キミ、落ちた子だ」
「!」

改札を抜けた後、何の前触れもなく声が鼓膜に触れた。反射的に足を止め、後ろを振り返る。白いコートを身に纏う青年が、改札機の向こう側に立っていた。帽子や衣服をよく見ると、ここの車掌だということが窺える。落ちた子、と繰り返す彼のつり上がった口端に、奇妙な焦燥感が発露した。

早く帰ろう。
隣を歩くNが、幾分低い声のトーンで紡いだのを聞きながら、私は急かされるように歩き出した。




20111013
修正:20111023