カイ | ナノ




よく会うなあ、と気付かれないように小さく笑った。頬を掠める冷たい風に、腕に抱えた紙袋を抱き締めるように身を縮める。ついぞ身震いすると、「大丈夫かい」と気遣う言葉が降ってきた。それに笑みを顔に貼り付けたまま、大丈夫だと返す。……もちろん邪険になど思っているわけではない。むしろ好意的に感じている。隣を歩く青年の顎のラインを見上げた。柔らかい萌黄の髪が、秋風に合わせて透明な音を奏でた。

病院の帰りだった。列車が来る時間まで、することもなく駅のベンチに座っていた際に、不意に声をかけられたのだ。そうして振り返った先にいたのがNだった。何故こんなところに、という驚きが素直な思いだ。それとなく問いかけてみれば、彼は昨日の今日で心配だったから迎えにきたと笑いながら言った。確かに、今日の仕事は午前中のみで、午後に病院に行く予定だと話した気がする。ならば、彼はわざわざ私を気にかけてここまで来てくれたことになる。穏やかな横顔を眺め、零れそうになる笑みを飲み込んだ。
――でも、と思う。
何故そこまで私に構うのかと、疑問を抱くことが増えた。
私が彼と出会ったのはほんの1ヶ月前だ。十年来の友人とは程遠い、真新しい関係なのだ。確かに親しい間柄ではある。だが、これでは私が彼に一方的に負荷をかけているだけだ。嫌悪と疲労しか、募らないのではないのだろうか。ごく自然に隣を歩く青年に、何故か小さな不安が発露した。
階段を下りきり、ホームに着いたところで一度立ち止まる。人は存外少なかった。

「やっぱり寒いね」
「自販機で何か温かいもの買おうかな。あ、この間カフェオレもらったお礼に何か奢るよ」
「いいよ。ボクは平気」
「これでも今日はちゃんとお金持ってきてるから大丈夫だってば。一応社会人なんだからね、私」
「じゃあ、ミルクティー」
「うん。……私は何にしようかなあ」

止めていた歩を進め、ちょうど直線上にある自販機の傍らに向かう。財布を取り出し迷わずミルクティーを1つ購入し、少し間をおき、悩んだあとに自分の分であるカフェオレを購入した。スチール缶の熱に一瞬怯みながらも、買ったそれをNに差し出した。彼は私からミルクティーを受け取りながら、小さく苦笑する。

「カフェオレ、好きだね」
「そう?」
「それ、昨日ボクが買った甘過ぎて飲めなかったものだよ」
「!」
「ラベルが同じ」

彼は私が持つ缶をコツンと指で突きながら言った。言われてみればそうかもしれない。ココアでも良かったんだけどね、と付け足すと、「甘いものが好きなんだね」と彼は訂正した。それに笑いながら答え、缶のタブを開けた。
一口だけ口に運ぶと、甘さと熱が口内にジワリと広がる。彼は冷えた手のひらの暖を取るように両手でミルクティーを抱えていた。
もうすぐ列車が来るだろうか。ホームにある備え付けのアナログ時計を見上げる。同時にアナウンスが鳴り響き、それに重なるように声が耳朶を打った。

「来た」
「!」

いつの間にか私から離れ、白線の内側ギリギリの位置に立つNが言った。無邪気な子供さながら、少し身を乗り出して遠くを眺める背中に苦笑する。「危ないよ」と声をかけながら、彼に向かって2歩ほど前進した。

――同時に私は自身の中で首を擡げた考えにゾッとした。

間入れず列車が目の前に滑り込んでくる。Nの萌黄色の髪が大きくうねり、風に踊った。
女声のアナウンスと共にドアが開き、中から数人降りてくる。真横を通り過ぎていく、人の気配を感じながら、私は彼に呼ばれて慌てて乗車した。思いのほかガランとした車内に、「この時間は空いてるね」と言う彼の声が聞こえた気がした。
適当に空いている席に座る彼の隣に腰を下ろす。注意が足りず、座る際に缶の口から中身が僅かに溢れた。

「大丈夫かい?」
「あはは、なんだか注意力が落ちてるかも」
「風邪? 病院行ってきたばかりじゃないか」
「大丈夫だよ」
「降りるときに荷物忘れないようにね」

苦笑混じりに紡いだ彼に、同じように苦い笑みを浮かべて返した。ゴトンと鈍い衝撃と音を伴い、鉄の匣は動き出す。少しずつ加速していく列車の揺れに微睡みを覚えながら、窓から見える景色を眺めた。

――想像してしまった。
網膜には白線に立つNの背中が焼き付いて離れない。
――あの薄い背中を外側へと押し出したら、どのような光景を手に入れられるのだろうかと。
黒い感情を嚥下した。

例えばあの背中を突き落としたとして。
その先の結末が死、或いは、死に限りなく近いものだったとして。
その細い肢体からは赤が飛び散る。肉片、血液、ついその瞬間まで生きていた体。散る。飛び散る。真っ赤。骨。折れる。砕ける。ヒト。赤い。骨片。皮膚を突き破った骨。そこから覗く内臓。ドロドロと流れる、赤黒い塊。濃厚で粘着く朱色の匂い。肌に張り付く、血生臭い、死の匂い。
白い肌を染める、折れ曲がった真っ赤な色。

それはまるで、折れたアネモネの花のようだ。
地下に咲くそれは、きっと赤く美しいのだろう。

突き落としてしまいたい。歪んだ衝動に視界がぶれる。何故だが、懐かしいような気がした。





20111012