カイ | ナノ




下位認識、という言葉が美学の専門用語にある。曖昧にしか記憶にはないが、確か、認識に関するものであった気がする。曖昧なもの。混雑なもの。明晰なもの。個別概念。普遍的概念。思い出せるのは単語のみだ。それがどのように繋がるべきなのかは、わからない。
まるで、絵柄は分かれどピースが欠けた未完成のパズルを見ているようだった。ぼろぼろと抜け落ちていくピースは、本来あるべきその居場所を離れ、どこか暗く深い場所に落ちていく。絵はただの柄になる。

――そう、その感覚に、ひどく似ている。
欠けた部分のピースを持ちながら、はめるべき場所を私は知らない。





ない。
バッグに忍ばせた手を止め、ドクリと心臓が鈍く打つのを感じた。改札機の前に立ちながら、もう一度中を探る。やはり見当たらない。後ろから押し寄せてくる人の波に煽られ、覚束ない足がよろけた。バッグを抱えるように持ちながら、雑踏を避けるために柱の傍らに移動する。
もう一度バッグの中に手を伸ばし、中を探る。何度確認しても、やはり定期は見当たらなかった。

「どうしよう……」

落としたのだろうか。しかし一体どこで落としたのだろう。こちらに来たときは定期で改札機を抜けたのだからあった。では、最初の服を買った店はどうだろう。次に人の多い街中を歩いていた時は。Nと会った時は。Nとここまで来た時は。記憶を1つ1つ辿るごとに、焦燥感が募る。落としたなどとは考えずここまで来てしまったのだ。探すべき場所がたくさんある。
……だが、ここに来た時はすでに人が多かった。それに、考えれば考えるほど、最初店に行った時点ですでに視界に映らなかった気がする。もしかしてここで落としたのだろうか。思い近くの事務員に、定期の落とし物はなかったかと尋ねた。事務員の男性は少し考えるような素振りを見せ、「少々お待ちください」と部屋の奥に消える。数分の間を置いて戻ってきた彼は、苦い笑みを含みながら今のところありませんと答えを出した。
ここにはないのだろうか。

時計を気にかけながら、足下に慎重に視線を落として駅内を見て回る。改札機の近くだろうか。流れてくる人に気をつけながら、床に視線を這わせる。お金は最低限しか持ってきていなかった。運賃は定期に任せていたのだ。一体どこに行ってしまったのだろう。不安が少しずつ膨張していく。
しかしタイミング悪く電車が到着したらしく、大量の人間が一度に改札機から溢れ出てきた。
避けようとその場を退くが、肩に衝撃が走る。耐えきれずその場に崩れ落ちると、舌打ちが聞こえた。
ズシリと、体の中心に鉛が刺さるような、鈍く重い感覚に捕らわれる。グラリと視界が揺れた。床に膝をつきながら、ぶつかった反射で落としてしまった荷物を拾う。
ざわざわと、うなじに刺さる視線に吐き気がした。不意に込み上げてくる熱を飲み下す。視界が滲み、唇を噛んだ。

淘汰。
ポツリと言葉が頭に降ってくる。服の袖で目元を拭った。声が、うるさい。駅内のアナウンス。雑踏。人混み。うるさい。頭が痛い。空気が濁っている。淀んでいる。息が苦しい。苦しい。
『どうせ、いらないから』
だから消えてしまえばいいって、昔、何度か思ったことがあった。
――消えたい?
何故その結論に行き着いたのだろう。何か。何が。何を。

「どうしたの」
「!」

肩に小さな衝撃が走る。反射的に振り返ると、駅に来たときに別れたはずの青年が、そこにはいた。意外な展開につい呼吸を一瞬だけ止める。彼は首を傾げ、私を見下ろした。灰青色の瞳が、僅かな懸念を宿して私の顔を覗き込んだ。

「N……」
「何してるんだい」
「あ、うん。定期……定期、落としちゃって……」
「帰れないのかい?」
「……だ、大丈夫。大丈夫だよ。大丈夫だから、気にしないで」

荷物を抱え、立ち上がりながら首を振った。他人に甘えることに、どうしようもなく後ろめたい気分になったのだ。彼は視線をさまよわせる私の手を引き歩き出す。
向かった先は、切符売り場だった。そして迷わず切符を2枚購入する。私が、降りる駅までの代金の切符だった。

「家まで送っていくよ」
「いいよ。大丈夫だよ」
「気にしないで」
「でも」
「ああ、次の列車が行ってしまうね。早く行こう」
「ま、待って」

私の意志に構わず歩いていく彼に引っ張られ、ふらつきながら歩を進める。前を歩く背中を見詰めながら、ふと、ざらついた映像が意識を撫でる感覚に眉をひそめる。既視感にも似たそれに、指先が震えた。握り返される手のひらの感触に、息を呑む。

『大丈夫。きっと、大丈夫だよ。ね。大丈夫だから』
『――無責任なことばかり言わないでよ!』


あの日、振り払った手は、誰のモノだったろう。



20111008
修正:20111022