カイ | ナノ




終わらない。
全然終わらない。
時間なら気が遠くなるほど経ったのに、まだ終わらない。
今日も?
――今日も。
終わらないのだ。
頸椎が軋む。
呼吸がうまくできない。
苦しい。
今日も。
今日も。

しにたいな。




肌にべったりと張り付く冷気と吐息に足を一度止めた。右の手のひらに食い込む重みに、気だるさを覚える。……次の地下鉄まで、まだ少し余裕がある。あと30分、と頭の中で呟き、ベンチを探した。しかしこんな人の多いところでは、見つかるはずがない。人ごみを抜けようと歩を進めた。荷物を持っていることもあり、とにかく座りたかった。一度荷物を抱え直す。

昔からよく、地下鉄を使って遠出をしていた。家から駅まではバスで15分程度かかる。そこから鉄道に乗ると、ライモンシティやヒウンシティといった都会に直通のものがあった。しかし私が住んでいる場所は田舎であるため、地下鉄は2時間に1本程度しか出ていない。どちらかと言えば、不便だと感じることの方が強いだろう。かろうじて出勤に間に合う時間のものがあるので、それが幸いだった。

寂れた秋空を見上げ、息を吐く。今日の目的は、ライモンシティで秋用の衣服を購入することだった。だが意外にも早くそれは達成されてしまった。もともと買い物に時間をかける気質ではなかったので、最初に入った店で気に入ったものを迷わず購入したのだ。そのため今は、次の地下鉄の時間まで暇つぶしに街中を歩いていた。交差点を渡り、人の波に身を任せて歩を進める。

そのとき、見慣れた色を人混みの向こう側に見つけた。声をかけようか、迷いながらなんとなくその背中を追う。しかし体に衝撃が走ると共に、荷物は腕から抜け落ち、その背中は人混みに塗り潰され、見えなくなってしまった。足下に散らばる荷物を、身を屈めて慌ててかき集める。私を追い抜かしていく人の波から、舌打ちが聞こえた。ざわざわと脳髄に波打つ雑踏が、冷ややかに嘲笑している。どうしようもなく息が苦しい気がした。ふらつきながら立ち上がる。茫洋とその場に立ち尽くしながら、抱えた荷物を抱き締めた。気のせいだったのだろう。後ろ姿が似ている人などたくさんいる。先ほど視界の片隅に映った影を、無理やり引き剥がすように振り払った。
踵を返す。そうして時間を潰すために人混みを歩き出した。

「やっぱりKだ」
「――!」

不意に肩に小さな衝撃が走り、驚きに体が跳ねる。後ろを振り返ると、先ほど気のせいだと結論付けだ姿がそこには在った。
「また会ったね」と笑う灰青色の瞳に、目を丸くした。とっさに何かを言おうと息を吸うが、流れてきた人の波にぶつかり、言葉が引っ込む。
すると僅かに眉をひそめた彼により腕を引かれ、5mほど先、右にある遊園地のゲートをくぐった。同時に耳朶に触れる音は雑踏から軽快なメロディーに変わる。混雑から抜けた観覧車前のベンチの前で立ち止まり、彼は改まるように柔らかく笑った。そして「また会ったね」と先ほどと同じ言葉を反芻する。それに苦笑を返す。彼に促され、荷物を下ろしながらその隣に座った。

「買い物に来たのかい?」
「うん。あと気晴らしかな」
「ここまでずいぶん遠いけど、何で来たんだい? ポケモン、は持ってなかったよね」
「地下鉄だよ。直通の。40分くらいだったかな」
「そっか。大変だったね。疲れただろ。飲む?」

笑顔のまま私へと差し出されたのは、缶コーヒーだった。すでにタブが開いている。それに首を傾げると、彼は「飲みかけだけど」と付け足した。

「飲まないの?」
「ボクには甘過ぎて、少し困ってた」
「カフェオレって、ちゃんと書いてあるのに」
「なんとなく、買ってしまっただけだよ」

力無く笑う横顔に吐息をつき、飲みかけのそれを受け取った。口に運んでみると、確かにコーヒーの風味より先に甘味がやってくる。私は甘い物が好きだからともかく、そうではない彼からしたら飲むに憚るものだったのだろう。「おいしい?」と眉をひそめるNに私は苦笑を返した。

彼――Nは、私が住んでいる街で出会った友人だった。出会い方こそおかしなものだったが、それはそれで今の私の一旦を担うものである。
Nと出会ったのは、退院して1週間ほど経った頃だった。街の中心に流れる川を橋の上から見下ろしていた時に、声をかけられたのだ。しかしそれは別段夢見的な話ではない。私が欄干にまで身を乗り出していたため、嫌な想像と危機を感じたNによる勘違いからであったのだ。確かに、見ようによっては身投げしようとしているように見えなくもない。出会いが笑い話になるのだから、親しくなったのは必然的だったのだろうか。
それから偶然が重なり、たびたび様々な場所で顔を会わせた。聞けば旅をしているらしいが、少し前までは私が住む街に滞在していたらしい。数奇な再会を繰り返すうちに、いつの間にか親交が深まっていたのだろう。
カフェオレを飲む私の隣で、彼はおもむろに首を持ち上げた。視線の先には、観覧車がある。
娯楽施設に富んだこの街のシンボルだ。遊園地の他に、スポーツを行うスタジアムやデパート、ポケモンバトル専門の施設もあると聞く。大都会という言葉を欲しいままにする施設の充実さだと思う。

「観覧車、乗ってきたの?」
「これ、2人以上でなければ乗せてもらえないんだよ」
「そうなの」
「見ているだけでも案外面白いものだけれどね」
「もう、寂しいこと言わないで。恋人とか、好きな子とか、連れてきて乗ればいいのに」
「見ているだけで、楽しいからいいよ」

謙虚というよりも、それは卑屈なものに聞こえた。私たちの目の前を、笑い声をあげる親子が横切る。ただ茫洋と環状の鉄塔を見上げる彼は、いつになく人形のようだった。
第一印象も、どちらかと言えば、不思議な雰囲気の青年というものだった。よく考えると私は彼のことを全くといっていいほど知らない。どこから来て今までどのような生涯を歩んできたのか。ただなんとなく、気まぐれに私の前に現れる旅のトレーナーで、友人である。その程度の認識だった。ただの偶然がもたらす、無知な関係だったのだ。

「Nの言い方、まるでひとりぼっちみたい」
「ひとりだよ」
「!」
「……ずっと、ひとりぼっちだったよ」
「――そう……なんだ。あ、もう少し財布に余裕を持ってくれば良かったかな。私で良ければ一緒に乗ったんだけど。なんて。私と乗っても、何も楽しくないけど」
「なら、また今度ここで会ったときに、一緒に乗ろうよ」
「!」
「嫌なら、別にいいんだ」
「そんなことないよ」
「そう。なら良かった」

綺麗に笑んでみせる瞳に、私は少しだけ気後れした。そろそろ時間だろう、と立ち上がった彼に促され、私もまた立ち上がる。膝の上に置いていた荷物を、肩に背負おうと腕に力を入れた。しかしそれよりも先に、伸びてきた細い腕が荷物を持ち上げた。

「荷物持つよ」
「平気だよ。重くないもの」
「家まで送っていく。ボクもそちらに用があるから」

ね、とまるで許しを請う子供のように、彼は首を傾げた。年より幼く見えるその仕草に、私は苦笑しながら荷物を預けた。
彼の隣に並び、駅に向かってゆっくりと歩き出す。

なんだか懐かしいような気がして、罪悪感が湧いた。




20111007