カイ | ナノ




改竄する。
「さよなら」からやり直す。
あの日を繰り返す。
出会いを作り直す。
そのために、自分も別のものに作り替えねばならない。不必要なものは削ぎ落とし、既知を未知に置き換えるのだ。

それはまるで、無知な人間のように。




「やめなさい」

唇に指先が触れるか触れないかの刹那に、不意に腕に圧力がかかった。肩が大きく震える。反射的に呼吸を止め、唇を軽く噛みながら首を持ち上げた。見上げた先にある瞳は、まるで汚物を見るような不快感を宿している。紅い虹彩に囲まれた瞳の奥で、嫌悪がわたしを指差し嘲笑った。それに萎縮し、たまらず視線を下ろして腕の力を抜く。わたしの手を掴んでいた手も、まもなくして離れた。
ほとんど無意識に動いていた腕は、一体脳からどんな信号を受け取っていたのだろうか。泥が詰まったように濁った頭で、重い思索を巡らせる。視界の片隅に映り込んだ左手の指先は、爪の形が歪だ。

眼球を震わせ、おもむろに視線を少しだけ上にシフトさせる。視界には、骨ばった白い手のひらが映った。綺麗な指先だとぼんやりと思う。指には傷1つなく、甲はきめ細かい滑らかな粒子に覆われている。左手の薬指にはめられた銀色のリングがいっそう映えた。それを茫洋と見詰めては思索を放棄し、拙い思考を積み重ねる。

――幼い頃、爪や指を噛む癖があった。きっかけなど今では記憶のどこにも見当たらない。どのような時に噛んでいたのかも、覚えていない。しかし大体がマイナスの感情にとらわれていた時であったと思う。
あの人は、わたしのその癖が嫌いだった。
やめるようにとよく言われていた気がする。昔、大切な人にもそんな癖があったからだそうだ。血が滲む指先を見て、あの人は困ったように笑っていた。その冷たく大きな手のひらで、わたしの指先を包みながら「親からもらった器は大切にしなさい」と、静かに繰り返していた。その優しげな表情を、幼いわたしはひどく気に入っていたと思う。

「お母さんに、会いに来たんだよ」
「……もう、会われたのですか?」
「まだ。まだ、会える時間じゃないって。時計の針が、12になったら会える」

会える、と繰り返す。確か、あの人も大切な人に会いに来たのだ。幼いながら、それは無意識にわかっていた気がする。車椅子を押しながら中庭を歩く姿を、何度か見たことがある。車椅子に乗っている女性は触れれば崩れてしまいそうなほど脆い印象の人だった。あの人はいつも、彼女の傍らでその脆弱な肢体を支えていた。彼女はいつも、あの人に穏やかに寄り添っていた。倖せそうな2人だった。同じくらい悲しげに笑う、2人だった。

何故、そんな顔をしているのだろう。
首を傾げ、淡い影の中に揺れる瞳を見上げる。そらされる目に、わたしは手を伸ばした。
おそらく、気を引きたかったのだろう。銀色の指輪にどれほど深い思いが刻まれていようと、幼いわたしには関係なかった。あの人の愛する人の真似をして、その人と同じ場所にたどり着きたかったのだ。成りすましてしまいたかった。愛されて、みたかった。

「わたし、ね」
「そろそろ時間だ。もう、戻りなさい」
「……はい」
「良い子だ」

撫でるように髪を梳かれ、目を細める。赤い瞳はそらされ、こちらには背が向けられた。その背中はゆっくりと遠ざかっていく。小さくなっていく姿は、深い霧の中に溶け込むように霞んでいく。その隣には、細い影が寄り添っていた。きっとそれが、彼の愛する人だ。……わたしは僅かな寂しさを抱く。どうすることもできない。それはまぎれもない事実なのだ。

あの人の指先から銀色の指輪が抜け落ち、そこから音もなく奈落が口を開ける。世界の時間が止まったようだった。足元から色が失われていく。グラリと視界が揺れた。
――どうせなら、幸せになって欲しかった。
寄り添っていた細い影は深い霧の中に溶けた。あの人の体は奈落から伸びる影に塗り潰されていく。
わたしはわたしの体がゆっくりと爪先から沈んでいくのを感じた。傾いていく景色に力を抜く。
そしてまるで、深海魚のように足元の影に向かう。遠ざかる明るみに、ゴポリと水泡が弾ける音が耳朶を撫でた。唇からは酸素が泡となって光の束に向かう。四肢には水が絡み付き、更に深く暗い場所へと意識を手招いた。
おそらく苦しくはなかった。これは夢であると、『私』は認識していたのだ。

どこか暗い海の底に向かう『私』の体は、次第に水圧に押し潰され、細く小さくなっていく。手のひらにある5本の指は肉が溶け落ち、半透明の白い糸のような影だけが残った。頭を残して、体は透き通って糸のような影に作り替えられていく。痛みはない。体はどんどん軽くなっていく。水圧によって体から肉が削げていく感覚は、重い荷物を1つずつ手放すような解放感があった。
やがてヒトの殻が完全に抜け落ちたわたしは、大きく身を震わせた。周りの水を体で打ち、大きく前進する。白く半透明の、最早肉体ですらないゼリー状の体が海底に向かう。無数の足とも触手とも、糸とも取れる下肢が揺れた。

だが、いつかはその殻も死に絶える。体は潮水に徐々に融解し、跡形もなく溶けて消えていく。
わたしが生きた事実そのものも、海の中で融解するのだ。






Χ
−カイ−

「きっと、戻ってくる」

それはまるで
骨が軋む冷えた暗幕の下
ただ静かに
海月は沈んでいった







――夢だと自覚しながらも見る夢を、明晰夢と云うのだそうだ。

頭部に感じる冷たく固い感触に目を覚ました。開けた視界には、見慣れた色が広がっている。しかし体は慣れない感覚に浸っていた。軋みを上げる首の関節が、鈍い痛みを訴える。
持ち上げた瞼の先では、カーテンの隙間から一縷の細く長い光が差し込んでいた。視界を縦に裂き、時折大きく波打ちながら視界を彩る。
緩慢な動作で腕を張り、上体を起こした。テーブルに伏せて寝ていたらしい。不意に首や肩に冷たい痛みが走り、眉をひそめる。
壁に掛けられたシンプルな円形のアナログ時計は、午前9時を指していた。

昨日は仕事から戻ってきて、そのまま寝てしまったのだ。輪郭を取り戻し始めた思考に、記憶の断片が蘇った。
床に無造作に投げ出されたスーツの上着を手繰り寄せ、今日が休みであって良かったと息を吐く。化粧も落とさず寝てしまったせいで、肌がべたついていて気持ち悪い。思いのほか冷たい外気に身震いしながら、腕をさすった。
次いで欠伸を噛み殺しながら床やソファーに無造作に置かれた毛布を掴みあげる。手のひらに伝わる柔らかさに、ふと何かを思い出しそうな、そんなもどかしい衝動に駆られた。夢の余韻だろうか。小さく首を傾げては、その感覚を無理やり意識の底へと押し込めた。
毛布を適当に畳んで腕に抱える。

退院して、もう1ヶ月になるだろうか。

事故だったそうだ。幸い一命を取り留めたものの、長いこと昏睡状態だったらしい。ただ、それがどのような事故だったのか、何が原因だったのかは、医師は教えてはくれなかった。それに、その事故の後遺症で軽い記憶障害になっているらしい。確かに目覚めたとき、自分の状況が理解できずひどく混乱した。自分が入院していたことも、その理由も、どれほど探しても全く頭の中にはなかった。事故とその前後の記憶がなかったのだ。記憶障害であることは間違いないのだろう。

目を伏せ、脳髄の深部に沈んだ情報をかき集める。記憶する限りでは、ごく普通の家庭に生まれ、抑揚に欠けた時間を浪費するだけの人生だった。取り立てて秀でた能力もなければ、別段問題行動を起こすわけでもない。没個性的な、詰まらない人間だった。それがこんな参事に遭うとは、日常に戻った今でも不可思議な気分になる。

1年の昏睡とそれ以前の事故を含む1年分の記憶の損失、半年のリハビリ。家を空けていたのは、1年半だ。帰った家の中は、すっかり埃が積もり、寂れていた。親の離婚と就職を機に一人暮らしを始めたが、私の中ではこの家で過ごした1年分が綺麗に抜け落ちてしまっている。そのため、記憶にない食器や家具の不一致なとが多少はあった。1年間、一切の変化なく在る方が、むしろ難しいのかもしれない。そう言い聞かせながら、覚えのないクッションやマグカップへの不安を黙殺した。やはり、それは僅かながらも私に違和感を残す。
しかしきっとそれも次第に薄れていくのだろう。先週から新しく決まった仕事や、これからの生活に塗り潰されていく。
人の一生が約80年ほどのものなら、失った2年など大したことはないのだ。簡単に別の時間で塗り潰され、いつしか忘れたことすら忘れ去るものだ。

自室のドアを開け、毛布をベッドに乱雑に置き、スーツをハンガーにかける。
最近は秋の色が濃くなり、朝晩の冷え込みが激しくなってきた。病院は空調設備が効いており、季節感は窓からの景色で視覚できるのみだった。家に戻ってきて、改めて肌で季節を感じたのだ。木々は色褪せ、日が沈む時間はどんどん早くなっている。寂れた空に枯れ葉が舞うのを眺め、シャワーを浴びるために部屋を出た。

今日は久しぶりに、地下鉄にでも乗って遠くまで出かけてみよう。
秋服が欲しいな、とぼんやりと思った。





20111006