足下を見下ろした。今までここに飛び降りた人間たちは、この景色を見ていたのだろうか。黒く塗り潰された翳りが瞬きを繰り返す。鈍く光る線路。錆の匂い。薄暗い空間は、寂れた煤の匂いがした。 1歩だけ踏み出す。爪先が浮いた。どこからともなく流れてきた風が、コートを大きく翻す。 冷えた空気は気道を通り、肺胞にゆっくりと染み込んだ。全身に巡る血液に錆びた匂いが混じる。足下は優しく沈黙していた。 優しく、静かに、ただ待っている。その暗闇は口を開けて待っている。総てを許容し、受け入れる。差別も優劣もない。公平で平等に与えられている。 ――そう、「死」とはそういうものだ。 「死」を前に万物は無に帰す。残酷なほどフェアな終着駅である。 私は口端を釣り上げた。 答えは簡単であった。彼女の顔を覚えられない理由もごく簡単だ。例えば、水中に漂う海月を2匹前にしたとき、我々に見分けがつくだろうか。それと同じことだ。私にとって、死者と知覚してしまったものはそういった括りになる。判別の対象ではない。 ――ああ、しかしなんと皮肉なことでしょう。 私はこんなにも、この小さな俯瞰に魅了されている。圧倒的な死への羨望が胸を焦がす。そう、総ては羨望なのだ。この世界から逃れたモノたちへの羨望だ。 爪先で足下を蹴る。遠くで汽笛が聞こえた。宙に浮いた体はゆっくりと下降していく。 ……確か、北欧神話のヘイムダルは笛で世界の終わりを知らせたのだ。 ならば彼はどれほどその笛を奏でる日を心待ちにしただろう。 耳をつんざく金属音と悲鳴が響き渡った。 笛の音が延々と木霊している。 * 「いつも使ってる地下鉄、人身事故があったんだってね」 「ああ、うん、びっくりしちゃった」 バッグの中に財布を入れていた私に、Nはテーブルに放り出された新聞を眺めながら呟いた。昨晩、仕事帰りに駅でぼんやりとしていた彼を見つけ、つれてきたのだ。聞けば宿を取り損ねてしまったらしい。彼は野宿は旅をしているから慣れている、と笑ったが、凩が容赦なく肌を打つ季節に外にいたら風邪を引いてしまう。夜は特にそうだ。ほんの僅か迷った後に、私の家で良ければ、と彼を引っ張ってきたのだ。 ……もちろんそれを口に出すまでは、恋人でもない男性を無闇に泊めるのことには多少の抵抗があった。世間体もあるし、モラルの問題もある。だが、これほど手助けをしてくれた人間を放っておくことは良心が痛んだ。何より彼自身にそういった不安を抱くこと自体が甚だ失礼なことだろう。今までこの家には何度も上げているのだから、今更何かを心配する必要はない。 半ば無理やり納得させる形で、彼をつれてきたのだ。 彼は話題を切り出したわりに、その表情はひどく詰まらなそうに新聞の文字を追っている。綺麗に整列した文字の隣には、ゴシック体で大きく「地下鉄で自殺未遂か!?」と如何にも煽るようなタイトルがふてぶてしく鎮座していた。軽く目を通した程度だが、駅員の誰かがホームから落ちたらしい。確か、車掌だっただろうか。 ……そんなことよりも、あと20分ほどしたら家を出なければならない。早く準備をしなければ。しかし事故は昨日起きたばかりだ。ダイヤが変更されていないかを、懸念していた。万が一いつも乗っている時間の列車がなかったら、遅刻してしまう。小さな不安が意識に指をかけていた。 「今日は早めに家を出るね」 「もう行くのかい?」 「うん、時間が気になるし、仕事も遅刻したくないから。心配だから、もう行くね」 「そっか。ボクもそろそろ失礼するよ」 「!」 立ち上がる姿に、彼もまたこの家から発とうとしているのだと気付いた。その様子を見て、ふと、引き止めるように口を開く。丸くなる湖面の瞳に、小さく笑いながら言葉を続けた。 「別にここで休んでてもいいよ。宿はまだ借りてないんでしょ?」 「あ……ああ、うん、そうだね。まだかな」 どこか言葉を濁すように、彼は曖昧に答えた。それに違和感を覚えながらも、再度休んでいくよう言葉をかける。彼は戸惑いとも遠慮とも取れるような薄い笑みを浮かべながら、頭を振った。うっすらとその顔に浮かぶ疲労の色に、眉をひそめる。 「ボクなら大丈夫だから」 「まだ早い時間だし、私に合わせることないよ」 「……ああ、そうか。そうだね、あまり朝早くにボクが家から出ていったら変な誤解をされてしまうからね」 「別にそんなつもりで言ったんじゃないよ」 「……」 「顔色あまり良くないから。昨日はあまり眠れなかった?」 「平気、大丈夫だよ。……ごめんよ」 「休んで楽になったら黙って出て行って大丈夫だから。倒れたりしたら大変でしょ。気を使う必要なんてないから、ちゃんと休んで」 「……ごめん」 眉を下げ、彼は力無く言葉を紡いだ。次いで新聞から手を離し、ソファーの背もたれに体を沈める。視線は意図的に私からそらされたようだった。萌黄色の髪が湖面の瞳に影を落とす。その暗がりを茫洋と眺めながら、私はバッグを肩に掛けた。肩に食い込む重みを握り締め、顔に笑みを貼り付ける。 「留守番よろしくね」 「いってらっしゃい」 閉まるドアと共に、その向こう側に消えていく彼を見た。 どこか影を孕んだ表情に、私は少しだけ不安を覚えた。 駅に着き、電光掲示板を慎重に目でなぞっていく。どうやらダイヤの変更はないらしい。いつもより早く出たため、1本早い時間のものにも乗れそうだ。そんなことをつらつらと考えながら、ホームに向かい階段を降りていく。 朝という時間帯故に、すれ違う人の数が多い。ざらざらと鼓膜を舐めるノイズに小さな頭痛を覚えながら、私は最後の1段を降りきった。 「落ちたんだよ、ノボリ」 「!」 すると何の前触れもなく、ノイズを掻き分けよく通る声が鼓膜に突き刺さる。反射的にビクリと肩が震えた。おもむろに視線を声の方へ向けると、そこには白を基調とした制服を身に纏う男性がいた。車掌だ。何度か見かけたことがある。確か、ここの車掌は双子だと聞いていたのでその弟だ。兄の方と何回か言葉を交わしたことがあった。 その視線を追う限り、彼は私に言葉を投げかけたのだろう。しかし言葉の意味が理解できず思わず眉をひそめた。 「あの、それは……」 「ノボリ、君と目が合ったんだよ」 「え……?」 「君、笑ってから。だからすごく不思議。だってノボリは嫌いだった」 ノボリ、とは兄の方だろうか。脳裏に目の前にいる男性とは対照的な、黒衣の男性が浮かび上がる。話が理解できずに眉をひそめる私に、彼は構わず続けた。 「落ちたんだよ。新聞は『モンスターボールを拾おうとして誤って転落』なんて書いてるけど。自分から落ちたんだよ」 「……」 「ノボリ、きっと落ちてみたかったんだね」 白い車掌の灰白色の瞳から、冷めるように感情が引いていく。私は言いようのない不快感に襲われた。ジワリと熱を持った胃からすえた匂いが込み上げる。 「落ちたらどうなるんだろう。ノボリ、いつも羨ましそうに見てたよ。だから落ちてみたかったんだよ。落ちたらどこに行けるのか、知りたかったんだよ」 声が延々と木霊して聞こえた。心臓にひたひたと冷えた焦燥が触れる。ひどく気持ち悪い。吐き気がする。 ふと、列車が来るというアナウンスが響き渡った。遠くから列車が来る。地鳴りがする。 ――落ちたら、どうなるのだろう。答えは決まってる。死或いはそれに限り無く近い状態だ。 先日の、Nを突き落とす妄想が脳裏をよぎった。 呼吸が震える。 「だって君、落ちたのに戻ってきたじゃない」 列車が停車する。風によりコートが大きく翻った。空気の抜けるような音と共にドアが開く。目の前の男性はゾッとするほど模造的な笑みを浮かべていた。私は反射的に、踵を返す。気持ち悪い。意味が分からない。頭が痛い。うるさい。うるさい。心臓がバクバクと鳴っている。 そして私は、逃げるように電車に乗り込んだ。 ドアが閉まる。道化のように笑みを浮かべた男性は、ただ私を見ていた。無意識に荒くなっていた息を、宥めるように深呼吸を繰り返す。 電車の中は空いていた。荷物を抱きかかえたまま椅子に座り込む。 わからない。私になんか関係ない。理解できない。必要ない。 「あ……」 朝食の片付けを忘れた。思考はいとも簡単にシフトした。 20111019 |