【看護師の日誌】 ××月××日 先月運び込まれた患者について、いくつか特記することがあるので各自目を通して置いてください。 先月××日、民間人の通報により、運び込まれた■■■さんについて。 運び込まれた当初は意識不明、しかし命に別状はありませんでした。 しかし上半身に見られる幾つもの打撲や、背中の裂傷、なにより頭部の外傷から後遺症が心配されます。通報した少年の話から、橋から誤って転落したことが窺えました。 手術は無事成功でしたので、今後の経過を見守っていきたいと思います。 ××月××日 経過は順調です。後遺症も見られません。面会に訪れる友人の励ましもあるからでしょう。リハビリも始まりました。おそらく予定より早く退院できるものと思われます。 ××月××日 ※要注意事項 先月運び込まれた×××について。 経過、リハビリ共に順調。今月末には退院予定。精神面、肉体面共に芳しく思われた。 しかし本日午前11時に、3階の病室から転落。目撃者の話によると、面会にきた友人の目の前で自ら飛び降りたものと思われる。現在は意識不明。頭部へのダメージが懸念される。 尚、飛び降りた時間が昼間であったため、他の患者や病院関係者も目撃してしまっている。特に患者に関しては、今後の回復に精神的な影響が出る可能性がある。今回のことは無闇に口外することはないように。 また、×××は病室を特別病棟へと移すことにした。 * 「う、えぇ……っ」 胃の底からせり上がってきた熱を、耐えきれず吐き出した。角膜が生理的な水膜に覆われ、視界が滲む。口内に残るすえた匂いに激しく咳き込むと、再び吐き気が咽頭を突いた。 気持ち悪い。 胃から絞り出される吐瀉物に、喘ぐように呼吸を繰り返す。朝食だと差し出された食物を、こうして無下にする自分はひどく情けないと思った。今月はもう家計がギリギリだと苦笑していた彼女の顔が浮かび上がる。それすら厭わず作られたものは、水と共に排水口に流れていった。しかしそれでも吐き気は治まらない。蛇口をさらに捻り、流れる水の量を増やした。 顔色が悪い、と言った彼女の声が再生される。心配かけまいと、出された朝食を無理に食べたのが悪かったらしい。本当は目覚めたらすぐに出ていくつもりだった。そうすれば、彼女に迷惑をかけないで済む。しかし結局ずるずると彼女の厚意に甘え、挙げ句醜態を隠すという情けない自分を突き付けられている。幸い彼女は仕事に行ってしまったので、これ以上の心配をかけることもない。帰って来る前にここを出よう。勝手に借りた洗面所で、流れる水の音と鏡に映る自分を茫洋と見た。 (……邪険には、思われたくない、し) まっさらな紙同然に、生気が抜け落ちた白い顔がこちらを見ている。それが自分であることは認知できる。しかし妙に現実味がなかった。くすんだ萌黄の髪のあいだで、薄暗い青い虹彩が曇る。濁った思考が徐々に頭痛へと形を変えるのを感じながら、それを振り払うように頭を振った。うがいをし、服の袖で顔を拭う。全身にねっとりと絡み付く倦怠感に、深く息を吐きながら水を止めた。 そして力が入らない足に、まるで糸が切れかかったマリオネットのようにずるずると廊下を進む。全身に熱した血液を送るような心臓に、脳髄が疼痛を訴えた。覚束ない足で廊下を進み、気まぐれに手に触れたドアノブを掴む。その先にあるのはリビングだ。玄関はまだそれよりも先の位置にある。一呼吸分の稚拙な思索を巡らせ、ドアノブをゆっくりと回した。 ……今ここを出たって、この家のそばで倒れてしまったら意味がない。 もう少しだけ休もう。動けるようになったら、出て行くのだ。崩れ落ちるように、ソファに身を投げ出した。 視界に映る天井の色に、深く息を吐き出す。何も変わらない、虚しさに似た懐古がどす黒く心臓を絡み付いた。それを良心の呵責と呼ぶのかどうかは知らない。罪悪感がないと言えば嘘になる。 (でも、ボクは、悪くない) 悪くない。そうして、謝ることを躊躇った。認めたくはなかったのだ。誰かのせいにすれば許される気がした。子供だった。 ――Kも。 彼女も、そうだ。 どちらが悪かったのだろうと思案する。考えれば考えるほど、彼女のせいにしたくてたまらなかった。 何もかも忘れて、振り切って、ひとりだけ柵から解放されるだなんて狡猾だ。 堅く目を閉ざし、ソファの上で身を縮めた。何も変わらない。匂いも、感触も、配置も、温度も。しかし彼女は決定的に変わってしまった。永い眠りが彼女を簡単に作り替えた。 「許さないから……」 ポツリと掠れた声で呟く。決して逃しはしないと、その後ろ姿を思い浮かべた。 ――それは海月のようだと、常々思っていた。 いたずらに近付いては離れていく。掴もうとすればすり抜けていく。水の中で、こちらが上手く動けないことをいいことにどんどん遠ざかっていく。波間を漂う海月だ。掴まえてしまったら、死んで溶けて消えてしまった。 手が届かない。掴めない。 今はもっと、離れているから余計だ。昔は何度も意見が衝突した。食い違っていた。彼女はボクを全否定していた。だけど、それでも構わなかった。彼女の関心はボクに向いていたのだ。 しかし今は違う。ボクは有象無象となんら変わりない位置にシフトしてしまった。彼女のそれは『良心』であり『親切心』程度である。その手は、簡単に切り離される。 ――それでも、きっと、戻ってくる。 やり直せるのだと思っていた。しかしそれは勘違いに過ぎない。あの日出会ったばかりのようになどとは、現実が許さなかった。だが、彼女の記憶が戻ることを恐れている自分がいるのも事実だ。 失ってしまったモノを取り戻すには、今の平穏が代償となる。故に今の仮初めの穏やかさは、昔失ったモノと引き換えに得たモノだった。 ……だったら、これはこれでいい。このまま、現状維持ができるなら。 それに、先に裏切ったのは彼女だ。彼女がボクを裏切った。因果応報だ。 閉ざした瞼が熱を孕む。 ――彼女と初めて出会った冬の日も、こんな泥ついた感情を抱えていた。 そこから掬い上げてくれた彼女はもういない。死んだ。落ちて死んだ。死んでしまった。今在る彼女は模造品だ。要らない。そんなもの、欲しかったわけではない。 だけど、と身を強ばらせた。指先や首に絡み付く冷気に、体が震える。気持ち悪い。頭が痛い。寒い。苦しい。苦しい。寂しい。 早く帰ってきて。 あの日落ちていった彼女の笑顔が、臓腑を抉る。今の穏やかな日々に酔いしれていたいと願った。その罰だ。またひどい吐き気に襲われた。 20111024 |