DO FUFU


その日、私は仕事を終えた後、許可を貰って書庫で本を読んでいた。
適当に選んだ小説を、黙々と。
人間が考えたストーリーに、人間の描く感情と行動と言動。
人の持つ狡猾さを、不器用さを、学ぶのにはぴったりだと思ったのだ。
私は悪魔で、人間を魅了しては魂を狩ってきたけれど、そんな深くまで、人間の感情の機微を知るまで、人らしい人の側に居たことがなかった。
私が迷っているのは、そのためだと思ったのだ。

紙に印刷されている文章は、不思議なリズムを持って言葉を綴っている。
主人公は迷い、戸惑いながらも前へ進んでいる。
私は、この主人公が羨ましく思えた。
迷って戸惑っていても、周囲の友人が必ず手を差し伸べてくれる。
それは彼の人徳もあるようだけれど。
彼の友人達が、揃って彼を迷いの森からすくい上げている。
それが、羨ましく思えたのだ。

私は迷いの森の中で、独りぼっちだ。
シエル様やセバスチャンさんが時折優しい言葉をかけてくれるけれど、すくい上げるような事は決してしない。
むしろ、更に惑わす事が多い。
私は気に入ってもらえているのかと、不安になる。
大切にしてくれているのは感じるけれど、果たして私は気に入られているのだろうか。
もし、二人が私を惑わして笑っているとしたら。
そんな、暗い考えが頭を擡げる。
決してそんな事がある訳ないのに、だ。

「……アリス?」

開けたままだった書庫の扉から、寝間着にナイトガウンを羽織ったシエル様が顔を覗かせた。

「まだ読んでいたのか。」

「はい。」

今、書庫の明かりは、私の手元のランタンしかなかった。
闇の燻る中に、シエル様は身を滑り込ませた。

「何を読んでいるんだ。」

明かりの元へ来たシエル様に、持っている本の背表紙を見せた。

「何だ、それは。そんな本があったのか?」

「はい。この辺りに。」

どうやら有名な作品ではないらしい。
開いた時に感じた、紙のまっさらな感触は、もしかしたら開かれたことがなかったからなのかもしれない。

「シエル様は、こんな遅くにどうなさったのですか?」

普段ならばとっくに眠っているはずの時間だ。
明かりも持たずに、どうしてこんな場所に。

「アリスがいるだろうと思って。」

そう言って、私の持っていた本を取り上げ、ランタンを置いている小さなテーブルへ置いた。

「アリス、昼間、お前はどうして泣いていたんだ?」

私の瞳を覗き込むように、シエル様の顔が近付いた。

「……分からなくて。」

呟くように答える。

「シエル様やセバスチャンさんの感情が、分からなくて。私のこと、どう思っていらっしゃるのでしょうか?」

そう言うと、シエル様は呆けた顔をして、そして真っ赤になった。

「どう、って……お前……。」

言葉を詰まらせながら、真っ赤なシエル様が俯いた。

「……僕も、よく分からない。分からないけれど、分からないなりに伝えてきたつもりだったが……つもりにすぎなかったようだな。」

シエル様は顔を上げて、私の手を取った。
澄んだ青の左眼と、淡いアメジストの右眼が、私を捕らえる。
美しい色だと、今更思う。
美しい造りの顔に、美しい瞳が?め込まれている、宝飾品のような顔だと思う。

「目を閉じろ。」

間近でそう言われて、私は慌てて目を閉じる。
その途端、唇が触れた。
柔らかい唇。
啄むように、何度も何度も軽いキスが続いた。

「アリス。」

キスの雨が止み、名前を呼ばれて目を開く。
やはり、美しい顔だった。

「僕にも分からない。それでも、決してアリスを悲しませるような、そんな感情は抱いていない。」

そう言って、シエル様の手が私の頭の上をポンポンと跳ねた。
その優しい感触に、思わず眼を細めてしまう。

「アリス、僕は寝室へ戻る。……僕が眠るまで、側にいろ。」

「はい。かしこまりました。」

私は本を元の場所へ戻すと、ランタンを持った。
私の前を歩き始めるシエル様を追って、書庫を出た。
シエル様の半歩前へ出て、寝室へと向かう。
後ろからそっと絡められた指に応える。
寝室までの短い距離を、私たちは手を繋いで歩いた。
シエル様の言葉を、頭の中で反芻する。
悲しませるような感情は抱いていないと、そう言ってくれた。
その言葉は、迷いの森の中に射す、一筋の、強い強い日差しのようだった。


FRAGILE



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