ツメタイヒカリ


その晩は、結局眠れなかった。
布団に潜っているのも居心地が悪くて、抱き枕を抱いて、掛け布団を頭から被って、部屋の隅で丸まっていた。
夜が端から白んでいく。
星の輝きは奪われて、青い天井に隠されていく。

一晩ずっと考えていた。
私は私が見えなくなっていて、二人は私に何を見ているのかを。
夜の考え事は、全く無意味だと知りながら。
同じ所をぐるぐると堂々巡りして、答えに行き着くことなんてないのに。

日が昇った。
完全に、夜が明けた。
私の迷いも、その光にかき消されていくようだった。

働かなくては。

その思いが、迷いの森から私を救い出した。
働いていれば、迷いの森も忘れられる。
まだ少し早いけれど、支度をしよう。
被っていた布団と抱き枕をベッドに戻すと、寝間着からメイド服へ着替える。
髪を束ねて、洗顔に向かう。
水の冷たさが指の芯まで伝わって、季節が変わっていくのを感じた。

「おはようございます。」

少し気乗りはしなかったけれど、キッチンへ向かう。
そこにはセバスチャンさんが居て、昨夜の記憶が甦ってくる。
恐ろしい、というあの一言が。
私の何が恐ろしいというのだろう。
答えはまだ見付かっていない。

「おはようございます、アリスさん。」

いつもと変わらぬ微笑みに、いつもと変わらぬ声。
何も変わらない朝。
指示された通りに朝食の支度の手伝いをする、そんな朝。
まるで昨夜が嘘のように、何も変わらない。

「アリスさん、顔色が悪いですね。」

不意に顔を覗き込まれて、ナイフを滑らせる手が止まった。

「何か、悩み事ですか?それとも、考え事でも?」

問われて、何も言えなかった。
何か答えようとして、口は動かしたのに、声も言葉も何も出なかった。
悩んでいるといえば、ずっと悩みっぱなしのままで、考え事はいつだってしている。
それは、あなたと主人のことだ、と言ってしまいたくて、でも、なかなか言い出せない。
私の中で渦巻く、これまでの二人からの言葉が、私を迷いの森に拘束している。

「分かりません。」

暫くかかって、ようやく絞り出せた一言だった。

「分からない、のですか?」

「はい。」

セバスチャンさんは、少し困ったような顔をしていた。

「何か、色々、分からなくって。」

呟くように言った。

「人の気持ちも、私のことも、分からないんです。」

そう言ってセバスチャンさんの目を見る。
まるで、助けてくれ、と縋っているようだと思った。
セバスチャンさんもそう感じているようで、微かに口角が吊り上がったのを見た。

「弱っているアリスさんなんて、珍しいですね。」

「そうですかね。」

「そうですよ。あなたはいつも鈍感なように、何も感じていないように振る舞っていましたから。」

セバスチャンさんは、私の手からナイフとジャガイモを取り上げた。

「あ……。」

そして、私の体を抱き締めた。
燕尾服から伝わる体温が、柔らかく私を包んでいる。
その体温が優しくて、私の涙腺が緩んだ。
この人は、私をどうしたいのだろう。
言葉や行動で惑わせて、そしてこんなに優しくして。
どうして、こうも振り回すのだろう。
私は彼の言うように鈍感なのかもしれない、けれど、何も感じていなかった訳じゃない。
私は私なりに受け止めて、考えて。
考えて、考えて、考えて。
迷いの森の中の深いところまで来てしまった。

「……教えて、下さい。」

押し当てられた胸の中で呟いた。

「セバスチャンさんは、シエル様は、私をどうしたいんですか。」

涙が溢れた。
目の前の黒が歪んで滲む。

「ぶつけられる感情が、私には分からなくて――。」

抱き締める腕に、力が込められた。

「アリスさん。」

私の名前が、やわらかく降ってくる。

「あなたは、純粋すぎていけない。あなたは、知らなすぎていけない。」

涙の粒が、瞬きに押し出されて転がり落ちた。

「これは、あなたの力で分かって頂きたいのですよ。申し訳ありません。」

やわらかな声が、逆に痛かった。

「坊ちゃんも私も、不器用であまのじゃくですから。」

最後にもう一度、申し訳ありません、と言われた。
そして抱擁から解放される。
流れた涙は、セバスチャンさんがハンカチで拭ってくれた。

「アリスさんに優しくする事ができなくて、申し訳ありません。」

「いいえ、お二人とも、とても優しくしてくださって……。」

そう言うと、セバスチャンさんは困ったような笑顔を見せた。

「アリスさん、あなたはもっと狡猾さを、不器用さを、不自由さを、もっと知ってください。そうすればきっと、あなたも分かりますよ。」

狡猾さを、不器用さを、不自由さを。
私は、これらをまだ知らないというのだろうか。
言葉の意味は知っていても。
その真意は知らないのかもしれない。

「……泣いて、困らせてしまって、すみませんでした。」

頭を下げた。
もっと観察しよう、そう思った。
二人を観察して、それらをしっかりと学ぼうと。
狡猾さを、不器用さを、不自由さを。
私の知りたい答えを隠す、それらを。

手の甲で瞼をこすった。
生ぬるい涙が広がって乾いた。


FRAGILE



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