影絵
夜の粒子が、部屋の隅で蠢いていた。
右手に持った燭台の蝋燭は、かなり短くなっている。
私はジリジリと灼ける音を聞きながら、蝋燭の照らす寝顔を見詰めていた。
「今日はアリスさんをご指名ですよ。」
セバスチャンさんはそう言って、燭台をこちらに寄越した。
いつもならば、就寝までシエル様の側にいるのはセバスチャンさんなのに。
「もう、あとは寝るだけですから。坊ちゃんが眠るまで、側にいてあげてください。」
セバスチャンさんは、そう言って微笑んだ。
その目は、記憶の中のシエル様を見ているようだった。
「かしこまりました。」
受け取った燭台を手に、私はシエル様の寝室へ向かう。
屋敷の隅々に、夜の粒子は散らばっている。
ざわざわざわめいて、蠢いて、屋敷の全てを夜で覆ってしまおうとしている気がした。
寝室のドアをノックして、返事を聞いてドアを開けた。
私の持つ燭台が、広すぎる寝室を照らす。
「アリスか。」
「はい。」
そのままベッドサイドへ移動した。
シエル様の眼帯は外されていて、右目の藤色が妖しく揺れる。
「僕が眠るまで……。」
「はい、承っております。」
シエル様は頭を枕に預けて、掛け布団を口元まで引き寄せた。
「アリス。」
「はい。」
「……何でも無い。」
そう言って、シエル様は瞼を下ろした。
瞼の上から眼球の動きがよく見えた。
ぎょろぎょろと、閉じた視界を彷徨っている。
「……アリス。」
瞼が開いて、私を見た。
不揃いの両目が、私を捕まえるように、真っ直ぐと見詰める。
蝋燭の火の揺れと一緒に、シエル様の瞳も揺れる。
昼間とは別人のようだ。
真っ直ぐなのに揺れるその瞳には、何か迷いのようなものを感じる。
迷いなんて、シエル様には似合わないものが。
「はい、何でしょう?」
蝋燭がジリジリとうめき声を上げる。
「――キス、を。」
シエル様は暫く躊躇って、絞り出すようにそう呟いた。
その小さな呟きが、私に染みていく。
まるで、魔法だ。
何か特別に甘い魔法をかけられたようだ。
その呟きで、私は心の底からキスをしたくてたまらなくなったのだから。
「シエル様。」
腰を屈めて、ベッドに横たわるシエル様に顔を寄せた。
シエル様が目を閉じる。
今度は、眼球が動くことがない。
真っ直ぐに、真っ直ぐに、瞼の下から私を見詰めている。
今、心の底から湧き上がっている感情は何というのだろう。
庇護欲のようで違う、それよりももっともっと甘い甘い感情。
守りたい、守らなければ、それだけじゃない。
私の知らない感情が、湧き出している。
私はその甘美なものを噛み締めながら、シエル様の唇に自らの唇を落とした。
優しく触れて、そして離れる。
シエル様の瞳が開かれて、直ぐ近くで目が合う。
「……足りない。」
息のかかる距離で、吐息を多く孕んだ声で、そう呟かれた。
再び唇を落として、今度はその唇を舌でなぞった。
薄く開かれた隙間に、自分の舌を滑り込ませる。
いつもされているように、いつもされているように。
奥でじっとしている舌を絡め取って、ゆっくりと絡め合う。
シエル様の手が伸びて、私の左腕を掴んだ。
せがむようなその仕草に、ほんの少しの加虐心が擽られる。
自分の口中に誘い込んだシエル様の舌先を、小さく噛んだ。
シエル様の体が、小さくびくりと跳ねる。
それと同時に、舌がシエル様の口中に戻っていった。
それを合図に唇を離す。
「アリス……。」
責めるような目つきで、シエル様は私を見た。
「はい。」
何も分かりません、という風に答えた。
「もういい、寝る。」
シエル様はそう言うと、布団を頭まですっぽりと被ってしまった。
そのままじっと動かない。
私は、小さな主のくるまる布団をじっと見ていた。
蝋燭の音がうるさく感じる程に、寝室は静かだった。
暫くして、布団がゆっくりと定期的に上下を始めた。
蝋燭を吹き消すと、静かな部屋に、微かな寝息が響いている。
「おやすみなさいませ、シエル様。」
小さな声でそう呟いて、真っ暗に、夜に飲み込まれた部屋を出ていった。
廊下もすっかり夜に飲み込まれていた。
暗い中を、自室へ向かって進む。
階下の自室の前には、セバスチャンさんが立っていた。
「ありがとうございました。」
「いいえ、とんでもありません。」
消えた燭台をセバスチャンさんに手渡す。
「アリスさん。」
名前を呼ばれて顔を上げると、セバスチャンさんの唇が降ってきた。
――さっきとは逆だ。
そう思って、反射的に閉じていた目を開けた。
視線がかち合って、それでも角度を変えて何度も重なる。
私たちは目を合わせたままの不思議なキスをしていた。
「私はアリスさんが恐ろしいです。」
唇が離れて、そう言われた。
「私は、何も……。」
恐ろしがられる事なんて何も無い。
何も無い。
「だからこそ、恐ろしいんですよ。」
セバスチャンさんはそう言うと、背中を向けて歩き出した。
私はその背中を見送ってから、部屋へ戻った。
私の部屋も、夜に飲み込まれていた。
メイド服を脱いで、寝間着に着替える。
ベッドに潜り込むと、抱き枕を抱き締めた。
何となく、右手の人差し指で自分の唇をなぞってみた。
この唇は何度も、何度もあの二人と重なってきた。
先程湧き上がった感情も、あの二人に押しつけられた感情も、この唇は全て知っているのかもしれない。
「教えて。」
小さく呟いた。
真っ暗な部屋で、私はまた、迷いの森を彷徨う。
私は何を求められて、何を恐れられて、何を、何を――。
深く暗い闇が、私の意識に降り注ぐ。
「教えて。」
私の声が、虚しく部屋に響いた。
FRAGILE
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