ホワイトソング
シエル様のグリモワールの解読は難航しているようだった。
そもそもがとても忙しい身だ。
解読だけに、そこまで時間が割けないというのが実情なのだろう。
ならば、私はメイドの仕事に徹するだけだ。
とはいえ、いつ解読が終わるのか、ソワソワしてしまうのも事実だった。
セバスチャンさんやシエル様に、浮き足だった様子をなるべく悟られないよう、とにかく仕事に熱中するようにして過ごしていた。
廊下の窓拭きを終えた頃、セバスチャンさんに呼ばれた。
「アリスさん、坊ちゃんがお呼びです。」
「あ、はい。」
雑巾を片付けてから、シエル様の書斎に向かった。
「失礼します。」
書斎机に頬杖をつき、とにかく不機嫌そうな少年がそこにいた。
「どうなさいましたか?」
「アリス、何なんだこれは。」
そう言って、私のグリモワールの表紙を、手の甲で何度か叩いた。
「何なんだ、と申されましても……。」
何も言えない。
私が書いたものではないからだ。
「トラップ、トラップ、トラップ。読ませる気がないだろ、この本は。」
「……はあ。」
私に当たられても、どうしようもない。
「申し訳ございません、シエル様に頑張って頂けない限りは――。」
「分かってる。」
溜息を一つ吐いて、シエル様は目を閉じた。
「一体、誰が書いたんだ、こんな物。」
「ソロモン王ですね、確か。」
「アリスの周りは都市伝説の塊だな。」
シエル様は表紙を捲ると、パラパラとページを捲っていく。
ここに、私の全てが書かれているのだ。
何に変化し、何を好み、何を叶えるのか。
「アリス。」
シエル様はページを捲る手を止めると、椅子から立ち上がった。
私の傍まで来ると、ぐい、と手を引かれる。
これは、屈めの合図だ。
「シエル様?」
目線を合わせて、微笑んでみせる。
「――全く、面倒臭い女なんだな、アリスは。」
「そんな……。」
抗議の声を上げようとした唇を、唇で封じられる。
シエル様の舌が何度か私の唇を彷徨って、おずおずと唇を割って入った。
不器用なその舌が、私の舌を絡めようとする。
「――っ!」
先日噛まれた部分をなぞられて、思わず舌を逃がした。
舌が、唇が離される。
「アリス、舌を見せろ。」
私はその言葉に従って、口を大きめに開いた。
舌の表面右側に、まだ治っていない傷がある。
先程なぞられた刺激で、また血が出てきている。
「どうした、その傷。」
自分で噛んだ、と言い逃れ出来る場所でもない。
そもそも、この主人には嘘を吐けない。
「……先日、セバスチャンさんに、噛まれました。」
「――くそっ、またアイツか。」
シエル様が苛立ちを顕わにする。
「すみません。」
思わず、謝罪の言葉が出た。
「アリスは何か悪い事をしたのか?」
「いえ、そういう訳では…・・。」
掴まれたままの手を、更に強く握られる。
「なら謝るな。」
「はい。」
シエル様は私の目を覗き込む。
その眼差しの澄んだ色に、私の目は光に射貫かれたように眩んだ。
「アリスは必ず、僕の所有物にする。」
「待ってろ、すぐに僕の所有物にしてみせる。」
そう言うと、シエル様は握っていた手を放した。
机に向かうと、グリモワールの表紙を開く。
「お待ちしております。」
「ああ。――行っていい。」
頭を下げて、書斎を出た。
シエル様の事だ、その言葉通り、きっと「すぐに」私の全てを曝いてしまうのだろう。
早く、早く、と、私の心は浮き足立つ。
早く曝いて、そして契約を。
私に出来るのは、快適な生活環境を作る事だけだ。
そのためにも、メイドの仕事に励まなければ。
「すぐに。」
そっと呟く。
それは、魔法の言葉のように思えた。
FRAGILE
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