さよならバタフライ


1日の仕事を終え、布団に潜って抱き枕を抱き締めていた。
鼻の奥にアプリコットがふわりと広がる。
今日も良い眠りにつけそうだった。
うつらうつらと、意識が夜の黒に明滅する。
心地良い浮遊感に身を任せていた。

不意に、部屋のドアがノックされた。

寝入り際を邪魔され、多少なりとも苛立ちを覚える。
勢い良く布団から起き上がると、少し乱暴にドアを開けた。

まず目に飛び込んだのは、燭台の光だった。
その明るさに一瞬目が眩んだものの、すぐに慣れる。
目線を上げると、そこに居たのは以前の主だった。

「――サンジェルマン伯爵。」

「久し振りだね、アリス。」

屈託なく笑うその顔から、思わず目を背けた。
何処へ行っていたのか、何をしていたのか、どうしてここへ来たのか。
疑問が幾つも湧いて出て、言葉にすることができなかった。

「部屋へ入れてくれないかな。」

彼の言葉で、ようやく意識が戻ったようだった。
部屋に通したけれど、椅子はないので、ベッドに腰掛けてもらう。
抱き枕をしげしげと見つめて、彼はこちらに向き直った。

「なかなか気に入られているみたいじゃないか。」

「ありがたい、です。」

普通の感想も、尋問を受けているように聞こえてしまう。

「最近、私の家に、ここの執事が来るんだけれど。」

サンジェルマン伯爵は、少し屈みになって話し始めた。

「彼は何をしにきているのかな?」

質問が、氷の棘のように私を貫く。
無邪気な表情から発せられる言葉が、どんなに恐ろしいものか。
私の元々の主は彼だ。
私は今、彼と契約しているのだ。
嘘を吐く事などできない。
カラカラに渇いた口で、絞り出すように答えた。

「グリモワールと、サンジェルマン伯爵の捜索です。」

「そうか、なるほど。」

そういえばあの日も捜されてたっけね、と軽い口調で呟く。
私の背中は、嫌な汗でびっしょりと濡れていた。
私は今、この主の元から離れたいと考えているのだから。

「誰のグリモワールを探しているの?」

蝋燭の炎が揺れる。
サンジェルマン伯爵の瞳も、炎と共に妖しく揺らめく。

「……わた、し、の、です。」

息が苦しい。
先程から、極度の緊張のせいか、浅い呼吸ばかりを繰り返している。

「そうか。ファントムハイヴ伯爵は、君が欲しくなったんだね。」

サンジェルマン伯爵から笑みが消えた。

「それとも、君から言い出したのかい?契約したいって。」

小首を傾げているその姿が、酷く恐ろしい怪物のように思えた。
元より何を考えているのかも分からない、人間らしくない人間だ。
怪物であっても不思議じゃない。

「――いえ、ファントムハイヴ伯爵が。」

嘘は吐けない。
私は、大事な今の主人を庇う事ができない。

「君はなかなか素敵だからね。欲しくなる気持ちはよく分かるよ。」

サンジェルマン伯爵の顔に、笑顔が戻った。
ほんの少しだけ安堵する。

「アリス、君はどうしたいのかな?」

呼吸が一瞬止まる。
正直に答えなければいけないけれど、嫌な予感がする。
出来ればこの質問に答えたくはない。
けれど、サンジェルマン伯爵と私の問答を邪魔するものは何もなかった。
私は諦めて、口を開く。

「私は、ファントムハイヴ伯爵と契約したいと思っています。」

彼の表情を見るのが怖くて項垂れた。
悪魔なのに、気付けば神に祈るように手を組んでいた。
全身が小さく震えている。

「君は、僕から離れると言うのかい?」

イエス、の代わりに小さく頷いた。

「困った子だね。子供への情に絆されるなんて。」

サンジェルマン伯爵は、呆れたように言い放った。
情に絆された訳じゃない。
心から尊敬できる主に頂いた日常に報いるため、その主の最期を見届けたい、だから契約したいと思ったのだ。
情に絆されるなんていう、簡単な言葉じゃ言い表しちゃいけない。

「私は日常を頂いたんです。日々違う刺激に満ちた日常を。」

思い切ってサンジェルマン伯爵の顔を見た。
目を合わせて、はっきりと伝えなければいけない。

「心から尊敬できる主に、日常の他にも沢山の物を頂きました。私はその成長を、盛衰を、最期を看届けたいと思ったのです。」

そう言い切ると、ようやく深い呼吸ができた。
サンジェルマン伯爵は一瞬驚いた表情を見せて、そして笑った。

「アリス、私はもう要らないのかい?」

笑顔のままで、寂しい問いが投げかけられる。

「与えられた仕事はこなします。私の最初の主人はサンジェルマン伯爵、あなたであって、要らない訳ではありません。優先順位が変わったのです。」

「そうか、アリスの1番がファントムハイヴ伯爵になってしまったんだね。」

「――はい。」

サンジェルマン伯爵は、静かに溜息を吐いた。

「動く死体について、ちゃんと叩き潰してくれるね?」

「はい。」

「そうか、そうか、そうか……。」

彼は同じ言葉を何度も繰り返していた。
確認をするようにも、己に言い聞かせているようにも聞こえた。

「正直ね、私は君を手放したくはないんだよ、アリス。」

そう言うと、サンジェルマン伯爵は立ち上がった。
燭台の蝋燭はすっかり短くなっている。
彼はゆっくりとした足取りで、部屋のドアへ向かった。

「300年も連れ添ったんだ。300年も。」

サンジェルマン伯爵は私を見つめた。

「君と僕の300年は何だったのかな。」

その目には、涙が溜まっているように見えた。

「でも、終わりにしなくちゃいけないみたいだね。」

ドアノブに手が掛けられた。

「おやすみ、アリス。」

そう言って、サンジェルマン伯爵は部屋から出て行った。
慌ててドアから廊下を見たけれど、そこにはもう、影一つなくなっていた。
また彼は消えたのだ。

ドアを閉めて布団に潜り込んで、漸く緊張が解けた。
彼の最後の言葉がどういう意味なのか、まだ分からないけれど。
私の言葉をどう受け取っていたのか、分からないけれど。
伝えなくちゃいけない事は、伝えられた筈だ。

目を閉じて、これまでの300年を思い出してみる。
それはとても長い時の筈なのに、とても簡素な、空っぽな思い出に見えた。
日々変わらない、何も変化のない、澱のような日常。
沢山の変化を愛してしまった今、あの頃愛していた変わらない日常が、酷く簡素で味気ないものに思えるのだ。
瞬き1つの、今の主の一生が、とても愛しく思えるようになってしまったのだから。


FRAGILE



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