ホンネ


ここ数日、陰鬱な考えばかりが私の頭を占めていた。
先日のセバスチャンさんとシエル様の言動が、私を迷いの森に誘う。
獣道すらないこの森で、私は独り膝を抱えている、そんな気分だった。
仕事に集中することで考えを払おうとしても、何せ例の2人は主人と上司なのだ。
どうしても顔を合わせてしまうから、私の気分は一向に晴れなかった。

ただ、そんな中でも気になることがひとつだけ。
それはシエル様がずっと苛立っていること。
先日のキス以来、シエル様は何かに苛立った様子で、仕事にもあまり身が入っていないようだった。

今日も朝食の給仕を手伝っていた。
皿に盛られた料理を、いつも以上の仏頂面で、ひどくつまらなそうに咀嚼する。
まるで味覚を失ってしまったみたいに、作業のように食事を進める。

「どうかなさったのですか?」

一番にそう聞くべきであろうセバスチャンさんは、微笑みを張り付けたまま何も言わない。
ただ、紅茶のお代わりを注いだその手を、シエル様は強く睨んでいた。
2人の間にある、何か張り詰めた物の正体も分からない。
だから手を出せない。
女王の憂いを晴らすのが私たちの仕事だけれど、それ以前に、私は主人の憂いを晴らしたかった。

重くどんよりとした物が、私の頭に、肩に、のしかかってくる。
何も出来ない事がもどかしく、私の迷いも邪魔で仕方がなかった。

朝食後、私はシエル様の書斎に呼び出された。
朝のあの様子を見ていたら、つい足が重くなってしまう。
書斎の扉をノックして、返答を待った。
少し時間を置いて、「入れ。」と聞こえた。
書斎の中は、シエル様の苛立ち、不機嫌さで満ちていた。
思わず呼吸が浅くなる程に。

「何のご用でしょう?」

なんとか絞り出した声は、少し震えていたかもしれない。

「アリスの主は今、僕だよな。」

シエル様が、そう呟いた。

「はい、そうです。」

「でも、動く死体の件が片付いたら、サンジェルマンの元へ帰るんだろ?」

「きっと、呼び戻されると思います。」

グリモワールに書かれた通りに、魔方陣を書いて、生け贄を捧げて、きっと私は呼び戻されるのだ。

「僕は、アリスのグリモワールが欲しい。」

書斎机に頬杖をついて、シエル様はそう言った。

「悪魔は何匹居ても困らないからな。」

シエル様はそっと目を閉じる。

「アリス、お前のグリモワールはどこにある?サンジェルマン邸か?」

「恐らくは、そうでしょう。あの日消えたサンジェルマン伯爵が持ち出していない限りは。」

確信は持てなかった。
悪魔は自分のグリモワールには触れることができない。
そのため、自分のグリモワールの在りかを知る事はできなかった。
書面での契約のため、今サンジェルマン伯爵がどこにいるかも分からない。

「……そうか。」

眉根を寄せて、シエル様は何か思案しているようだった。

「まだ私とサンジェルマン伯爵の契約は続いていますから、グリモワールだけが手に入ったとしても、契約を破棄しない限り、新たな契約は結べません。」

出来ることならば、私だって、この小さな主人との契約を結びたい。
あの、何も変わることのない、澱の中の生活に戻りたいとは思わない。
私は、この小さな主人が生きて死んでいく様を見届けたい。
この美しくて気高く、醜い主人の全てを、この目で見ていたい。

私はそっと目を閉じた。
瞼の裏側で、この主人が頂に立ち、総てを全うして、セバスチャンという悪魔に魂を喰われる様を描いた。
私はそのすぐ傍で、その最高に美しいであろう光景を見届けるのだ。
浅ましく、愚かで、美しいその光景に立ち会う事が出来たなら、なんと幸せな事だろう。

瞼の縁に水分が溜まっていくのを感じた。

「アリス?」

シエル様が私の名前を呼ぶ。

「……私は、出来る事なら、シエル様と契約を結びたいと思って。」

そこまで言ったところで、瞼に溜まった水分が、頬を伝っていくのを感じた。
悔しさで胸がいっぱいになると、涙が流れるのだと知った。

「おい、泣くな、アリス。」

慌てた様子で、シエル様が席を立った。
そのままこちらへ来ると、そっとその手が頬を拭った。

「泣くな。」

今度ははっきりと、そう言われた。

「申し訳ございませんでした。」

思い切り深呼吸をして、何とか涙を止める。
私の傍で、シエル様の目が心配そうにこちらを見つめていた。
主人に心配をかけるだなんて、使用人失格だ。

「アリス。」

シエル様の手が、以前のように優しく私の腕を引き寄せる。
自然と近付いた顔に、先日のキスがフラッシュバックする。

「僕はアリスと契約したい。」

シエル様はそう呟くと、私の頬にキスをした。

「いつか必ず、サンジェルマンを捕まえて、アリスのグリモワールを手に入れる。絶対だ。」

シエル様の唇が、私の唇にそっと重なった。
先日のキスのような卑しさの欠片もない、純朴なものだった。

「ありがとうございます。私も、いつか必ず、シエル様と契約を。」

シエル様の瞳の中には、黒い黒い私の影が映り込んでいた。
その瞳のもっとずっと奥深くで、苛立ちは消え去っていた。
どうして苛立ちが晴れたかは分からないけれど、主人の憂いが晴れたことが、心から嬉しかった。

書斎を出ると、そこにはセバスチャンさんが立っていた。

「どうなさったんですか?」

セバスチャンさんは微笑むことなく、そこに居た。

「少々つまらなくなってしまいましたね。」

「……立ち聞きしてたんですか?」

「そのつもりはなかったのですが、つい。」

そう言って、ようやくセバスチャンさんは微笑んだ。

「坊ちゃんの、あの焦る様子が面白かったのですが……。」

酷く残念そうに、肩を落とす仕草までして。

「アリスさん、坊ちゃんと仲良くしてあげて下さいね。」

そう言うと、セバスチャンさんは微笑みを一層深くした。
「私のために。」という言葉が続いたような気がした。

セバスチャンさんはシエル様の書斎をノックした。
私は仕事をするために廊下を歩き始めた。
迷いの森からはまだ抜け出せない。
けれど、その深い森に、ほんの少しだけ陽が差した気がした。


FRAGILE



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -