ランブルフィッシュ


私はその日、いつもより早起きをしていた。
部屋の窓から、白む空を見ていた。
明けの明星が白にかき消されていく。
日が昇る。
朝が始まる。
人間の生活に、その明かりが降り注ぐ。

いつも通り、シエル様の朝食の給仕を手伝っていた。
カップに足した紅茶が強く香る。
シエル様は、歳の割に食が細いように思う。
成長期なのだから、もっと食べても良いように思うのだけれど。
そんな事を言える立場でもなく、静かに、淡々と仕事をこなす。

食事を終えたシエル様は、仕事をするために書斎へと籠もった。

給仕を終え、私はメイドとしての仕事をするため、屋敷中を駆け回る。
あの小さな少年が、大きな会社を、そして英国の闇を動かしているのだから、こちら側は面白い。
何十回と反芻した考えをまた反芻しながら、私は仕事をする。
主人に対する尊敬の念をより強く噛み締める。
以前の主人の何倍、何十倍、何百倍、今の主人を尊敬していた。

以前の主人は仕事と称して、己の享楽ばかりを追いかけていたのだから。

執務室のベルが鳴って、セバスチャンさんが書斎へ向かう。
戻って来たセバスチャンさんは紅茶を淹れる準備をすると、私にそのワゴンを託した。

「え、私が、ですか?」

「はい。坊ちゃんがどうしても、と。」

私はセバスチャンさん程上手に紅茶を淹れる事はできない。
だからだろう、セバスチャンさんは、あとはカップに注ぐだけまで準備をしてくれた。

「では、行って参ります。」

妙な緊張を感じながら、ティーセットの乗ったワゴンを押した。

書斎の扉をノックして、返事を確認してその扉を開いた。
沢山の書類に向かい、シエル様はペンを走らせていた。

「失礼します。」

ワゴンの上の砂時計の砂が落ちきったのを確認して、ティーポットからカップへと紅茶を注ぐ。
机の空いた場所に、淹れた紅茶を置いた。

「アリス。」

目は書類に向けたまま、シエル様は私の名前を呼んだ。

「はい。」

「朝食の時に何か物言いたげに僕を見ていたが、何が言いたかったんだ?」

ぎくり、と胸が跳ねた。
ばれていたなんて。

「あの……ですね……。」

シエル様に嘘は吐けない。
私は意を決して、朝考えていたことを口にした。

「シエル様は食が細いな、と。成長期ですから、もっと食べてもいいのに、と。」

シエル様はぽかんとした顔で、こちらを見ていた。

「何だ、そんな事か。別にいいだろう、僕の勝手だ。」

「ええ、存じています。」

「しかし――。」

シエル様がペンを置いて立ち上がり、私の側に立った。

「いつまでもアリスに見下ろされているのは癪だな。」

私の方が、シエル様より少し背が高い。
「見下ろしている」と表現する程、差があるとは思えないのだけれど。
そう思っていると、シエル様が私の髪を掴んで引き寄せた。

「見上げられるくらいの方が都合が良い。」

何の都合が良いのか。
引っ張られている部分が痛い。
いつも私を引き寄せる時は、手や腕を引くのに。
何か、機嫌でも悪いのだろうか。
恐る恐るその目を見ても、考えが分かる訳がなかった。

「……つまらないな。」

そう呟くと、シエル様の顔がぐっと近付く。
私が覗き込んでいるはずなのに、シエル様が私の目を覗き込んで、考えを読み取っているみたいだ。
人間だから、そんなことできるはずないのに。

「本当につまらない。」

そう呟いて、シエル様の唇が私の唇に重なった。
舌が私の唇を撫でて、離れる。

「セバスチャンにも、されたんだろ?」

「何で、知って――。」

「あいつから言ってきたんだ。面白そうに。」

目の前で、その表情を歪める。

「アリスは今、僕の所有物だっていうのに。――そうだろ?悪魔。」

シエル様は口の端を歪につり上げた。

「はい。」

そう返事をして、私は微笑んでみせた。
シエル様は私の髪から手を離すと、書斎机を蹴飛ばした。

「――くそっ、僕らしくもない。」

机の上のカップが揺れて、ソーサーに紅茶が漏れる。
乱暴に椅子に座ると、項垂れて頭を抱えた。

「シエル様。」

「独りにしてくれ。」

そのままのポーズで、シエル様は苦しげに絞り出した。

「かしこまりました。」

私はワゴンを押して歩き始める。
扉の前まで来たところで、シエル様に呼び止められた。

「アリス。……紅茶、ありがとう。」

「恐れ入ります。」

一礼をして、書斎を出た。
ワゴンを押しながら廊下を進む。
セバスチャンさんは何を思って、先日の話をシエル様にしたのだろう。
シエル様は何故、私ごときのためにそこまで苦しんでいるのだろう。
私はこの屋敷に居ていい存在なのだろうか、ふと不安になった。
尊敬する主人を苦しめているだなんて。
暗い考えが頭を擡げる。
そう思い始めると止まらないものだ。
気管の奥で何か詰まるような、重苦しいものがまとわりつくような、そんな感覚に襲われる。
それを払うように深呼吸しても、何も変わらなかった。


FRAGILE



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