わずらい


夕陽も、晩餐の支度も、何もかもが新しい、そんな気分だった。
何度も着ているのに、今袖を通しているメイド服だって新しい。
主が変わっただけで、ここまで気分が違うものかと驚愕した。
300年前はどうだったか、今では思い出すことが出来ない。

「気分が良さそうだな。」

空いたグラスに水を注いでいると、シエル様がそう言った。

「はい!」

どう表現したら良いのか分からない、言葉にすることが難しい、そんな気分の良さ。
どうして、言語にはここまで制約があるのだろうか。

「坊ちゃんも随分ご機嫌のようですが。」

セバスチャンさんが、にやりと口角を上げて言う。

「……うるさい。」

シエル様は微かに頬を染めて、セバスチャンさんから視線を逸らした。

ああ、嬉しくて仕方がない。
シエル様も私との契約を喜んでくれていると思うと、更に舞い上がってしまいそうだった。
これからは何よりも優先して、シエル様の命令に従える。
舞い散る火の粉も、朝に滴る露からも、何よりも先にシエル様を守る事に全力を傾けられる。
使役される者としての喜びが、全て揃っていた。

「あんまり浮かれるなよ。」

グラスの水に口をつけて、そしてシエル様はそう言った。

「はい。」

そうだ、気を引き締めなければ。
喜びだけにうつつを抜かしていれば、どこかで手落ちしてしまう。
まず何よりも、どんな仕事でも完遂しなければならないのだから。

シエル様が食事を終え、私はその片付けをする。
皿やシルバーをワゴンに乗せ、キッチンへと運ぶ。
キッチンにて皿やグラスを洗っていると、セバスチャンさんがやって来た。

「本日は、おめでとうございます。」

「ありがとうございます。」

そう声を掛けながら、自然と皿洗いの手伝いをしてくれる。

「あ、ありがとうございます。」

「いいえ。」

皿と皿が、シルバーが触れてカチャカチャと音を立てる。
水で泡を流してしまうと、今度は乾いたクロスで水分を拭う。

「これで私たちの主は、正式に同じになりましたね。」

「はい。セバスチャン先輩、とお呼びした方がよろしいでしょうか?」

私の言葉に、セバスチャンさんは小さく笑う。

「これまで通りでお願いします。」

「はい、セバスチャンさん。」

セバスチャンさんはシルバーを磨いて、抽斗に仕舞っていく。
私は拭いた皿を重ねていく。
シルバーを磨き終えたセバスチャンさんが、こちらに向き直った。

「あんなに嬉しそうな坊ちゃんは久し振りに見ました。」

「ありがたい事です。」

しみじみそう思う。
私ごときのために、あんなに頑張ってグリモワールを解読して。
契約を願っただけでも、それだけでもありがたいというのに。

「私は、手放しでは喜べませんが。」

セバスチャンさんはそう言って、口元に手を当てた。

「坊ちゃんが、アリスさんの手に落ちてしまわないか心配で。」

「まさか。」

そんな筈はない。
私たちを結ぶのは、主従関係だけのはずだ。

「そのまさかも、あり得るんですよ。アリスさんは、そういう部分では、悪魔とは思えない程に疎いようですから。」

「そんな――。」

「アリスさんに落ちて、あの魂が美しく熟す妨げになってしまったらと思うと、気が気ではありません。」

いつの間にか近付いていたセバスチャンさんの顔を見上げた。
高い位置にあるその顔は、表情を無くしていた。

「そんなことあり得ません。」

「アリスさんは、人間の感情の機微を分かっていないようですね。」

セバスチャンさんの両手が、私の頬を包んだ。

「目の前に美しい蝶があれば、それを捕らえずにはいられない。」

「目の前に美しい花があれば、それを手折らずにはいられない。」

「目の前に美しい女性がいれば、声を掛けずにはいられない。」

「目の前の獲物を逃すのを嫌うのは、人も悪魔も同じです。」

セバスチャンさんの言葉が、私の脳を占めていく。
人も、悪魔も、同じ。

「私も、目の前の獲物を逃すなんてことがあってたまるものですか。」

「それは、シエル様の――。」

言いかけた口を、唇で塞がれた。
これまでの、私を試すようなキスではない、もっと原始的な感情からくるもののように思えるキス。

「逃した魚はでかいと言いますが……。」

「私はまだ、逃したとは思っていません。」

これは、シエル様のことではない。
となると、私のことなのだろうか。
でも、ならば、どうして。
同じ悪魔の、私の何を欲しているのだろうか。

「ああ、これだからアリスさんは嫌だ。」

セバスチャンさんは苦笑して、頬を包んでいた手を放した。

「幾ら忠告しても、幾ら獲ってしまおうとしても、知らん顔でヒラヒラと飛んで行ってしまう。」

セバスチャンさんの言おうとしている事は、分かるようで分からない。
私の何がいけないのか。
感情の機微に疎いだなんて、そんな。
そんなことないとは言い切れないけれど、けれど、悪魔なのだから、人を落とす手練手管として感情を読み取る事だってできる。
それでも、それでも、そんなに疎いのだろうか。

「そういう意味では、アリスさんは、本物の悪魔なのかもしれませんね。」

セバスチャンさんはそう言うと、キッチンから出て行った。
私は残りの皿を拭きながら考える。
私が読み切れていないのは、どういった感情なのだろうか。
本物の悪魔だなんて、あれはきっと皮肉に違いない。
それだとしたら、どういった趣旨の。
浮かれきっていた私の頭は、また、あの迷いの森へと引き戻される。
行き先の分からない、私には読めない、セバスチャンさんとシエル様の感情の狭間の森に。


FRAGILE



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -