エーデルワイス


その晩、私は夢を見た。
寝るのは好きだけれど、夢なんて見たことがなかった。
どんな夢かも覚えてないけれど、目が覚めたら、水が頬を伝っていた。
涙を流すなんて、それも初めてだった。
悪魔は悲しみなんて感じない。
常に享楽を謳歌する生き物だからだ。

じゃあ、これは嬉し涙?

それも違う気がする。
何か、とてつもない息苦しさを、私は覚えていた。
嬉しいはずがない。
嬉しかったはずがない。

ああ、起き上がらなければ。
仕事をしなければ。
全身を包む怠さを振り払うように、勢いをつけて起き上がった。

メイド服に袖を通して、いつものように支度をして、早速、仕事に従事する。
いつも通りに掃除をして回り、食事の支度を手伝う。
いつもの通りに、いつもの通りに。

「おい、アリス。顔色が悪いぞ。」

朝食の給仕の手伝いをしていると、不意にシエル様からそう声を掛けられた。

「……え、そうですか?」

「そう言われればそうですね。どこかお加減でも悪いのですか?」

「まさか。」

人じゃあるまいし。
具合が悪くなることなんてない、はずなのに。

「もう今日はいい、アリスは休んでおけ。」

「そんな、大丈夫ですよ。」

「いいえ。坊ちゃんの言う通りになさって下さい、アリスさん。」

セバスチャンさんが、扉の方へ私の背中を押した。
重たい足が、その力に従って進んでいく。

「……すみません、申し訳ございません。」

扉を開けて振り返ると、シエル様はこちらをじっと見つめていた。
軽く頭を下げて退室する。
自室までの道程が、いつもより長い。
本当に、私はどうしてしまったのだろう。

自室に戻り、寝間着に着替えると、そのまま布団に潜り込む。
目を閉じる勇気がなかった。
もし、また夢を見てしまったら。
私は自身が悪魔であるというアイデンティティを失ってしまう気がする。
ぼんやり天井を見つめて、ただじっとしていた。
何時間も、何時間も。
窓から差し込む陽が朱く燃え、鋭く部屋を照らすまで。

部屋のドアが、控えめにノックされる。

「はい。」

顔を覗かせたのは、シエル様だった。
慌てて起き上がろうとするのを、その手で制された。

「具合が悪いんだろう、無理するな。」

「……すみません。」

具合が悪いとも違う、とは言い出せなかった。

「アリスは、何を食べるんだ?」

「へ?」

思わず、素っ頓狂な声が出てしまった。

「今まで、何の魂を食べてきたんだ?」

「え、と……渡り賃の羊だけです。」

その最初の羊以来、数百年、私は何も食べずに生きてきた。
否、生きていけるのだ。

シエル様の言っている意味が分かった。

「あの、お腹が空いて、とかではないです!」

「何だ、違うのか。僕はてっきり、腹を空かせて具合が悪いのだと。」

シエル様は腕組みをして、何か考えているようだ。

「何だか今日はちょっと不調なだけです、大丈夫です。明日には元気です。」

笑ってみせると、シエル様はその腕組みを解いた。

「アリスがアホみたいに笑ってないと、屋敷が暗くなる。大丈夫なら、明日は笑ってろ。」

シエル様の手が、私の前髪をぐしゃぐしゃと乱した。
その温もりが嬉しくて、前髪を整えるのは止めることにした。

シエル様は私に背を向けて扉へ向かう。

「アリス、おやすみ。」

背を向けたまま、シエル様はそう言って部屋から出て行った。

「おやすみなさいませ、シエル様。」

閉じた扉に向かって、私は言葉を放った。
前髪にそっと手を遣る。
なんだか今夜は、静かに眠れる気がした。
もし、きっと夢を見たとしても、幸せな夢なのだろう。


FRAGILE



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