砂の果実
書庫の本棚を整理していた。
埃を払い、タイトルをアルファベット順に並べ替える。
私はこの書庫が好きだった。
窓のない、ひんやりとした空気。
部屋の隅から香る、微かな障気に似たもの。
とてもいい空気だ。
ノックの音が3回鳴った。
「はい?」
ドアが開くと、セバスチャンさんが顔を覗かせた。
「ここにいましたね、アリスさん。」
「何でしょう?」
セバスチャンさんは書庫に入ると、深呼吸をした。
私と同じなのかもしれない。
「アリスさん、絵はお得意ですか?」
突然の質問に、回答が遅れる。
「え、何かあったんですか?」
思わず、質問に質問で返してしまった。
「それがですね、本日いらっしゃる筈だった絵画の先生が来れなくなってしまいまして……。今夜は来客があるので、私はそちらの準備をしなければならくて。」
「絵画、得意ではありませんが、教える事くらいはできますよ。」
数百年こちらで過ごす間、暇を潰すために絵を描いて過ごした時期があった。
美術品を鑑賞するのも好きな部類に入る。
「助かります。では、早速坊ちゃんに教えて頂けますか?」
「はい、かしこまりました。」
シエル様が待つ部屋へ急ぐ。
決して走らず、早歩きで。
部屋の前へ着くと、ドアをノックした。
「入れ。」
「失礼します。」
鉛筆をだらしなく抓んでいたシエル様が、こちらを振り返った。
彼も、まさか私が来ると思っていなかったのだろう。
鉛筆が絨毯の上を転がった。
「今日はアリスか。」
「はい。恐縮ですが、私がご指導させて頂きますね。」
転がった鉛筆を拾い上げると、シエル様の手を取って握らせた。
「さあ、始めて下さい。」
シエル様は鉛筆を持ち直すと、描きかけの静物画デッサンに取りかかった。
イーゼルの先にある果物と花器、薔薇をじっと見つめる。
鉛筆を前に突きだし、対象の比率を計ると、カンバスに鉛筆を走らせる。
静かな部屋に、鉛筆の走る音だけが響く。
カンバスを覗き込めば、なかなか上手く描けている。
でも――。
「シエル様、林檎は丸くありませんよ。」
手前に置かれている林檎は、綺麗な丸だった。
「よく見て下さい。」
シエル様の背後で、腰をかがめて目線を揃えた。
彼の手から鉛筆をそっと奪うと、カンバスの隅に小さく、私から見えたままを描いた。
「分かりますか?林檎は五角形なんです。五角形を丸く整えた形が、林檎なんです。」
「アリス、意外だな。怪力だけだと思ってた。」
酷い。
でも、これまで彼が見てきた姿は、確かにただの怪力悪魔だ。
肩の力が抜ける。
シエル様は私の言った通り、林檎を描き直す。
こういう時は素直なのだと知った。
「今度はどうだ?」
少し自信ありげなその言葉に促されて、また私は背後で腰をかがめた。
「素晴らしいです。さすが、きれいに描けてます。」
その姿勢のまま、シエル様の方を向いた。
シエル様も同様に、私の方を向いていた。
思わぬ近さで目が合って、一瞬、心臓が跳ね上がった。
彼の頬も、みるみる赤くなっていく。
「あ……、その、なら良かった。」
シエル様は視線を外すと、微かに俯いた。
私もつられて俯いてしまう。
何で、こんな子供に。
こんな子供に動揺してしまったのだろう。
また、静かに鉛筆の走る音がする。
私はシエル様の背後から、カンバスを見つめる。
カンバスを見つめているつもりでも、私はその小さな背中にばかり気がいってしまう。
ドアをノックする音がした。
セバスチャンさんが入ってきて、お茶にしましょうと言った。
私はなぜか、この時間が永遠に続くような気がしていて、終わりの声に寂しさを覚えた。
「なあ、アリス。また絵を教えてくれないか?」
「はい、是非。」
私が頷くと、シエル様は微笑んでみせた。
そのぎこちない微笑みに覚えた感情は、きっと「愛しい」というものなのだろう。
それは子供に対するものなのか、そうでないのかは分からないけれど。
「では、失礼します。」
頭を下げて退室しようとすると、丁度紅茶のセットを運んできたセバスチャンさんと鉢合わせた。
「おや、アリスさんはお茶は……?」
「私は使用人ですから。お仕事に戻ります。」
体を退き、セバスチャンさんを通すと、私は部屋を出た。
新しく感じた不思議な感情を胸に、書庫へ戻った。
私の中を何かが渦巻いている。
ほんのり甘いそれを噛み締めながら、書庫の空気を大きく吸い込んだ。
FRAGILE
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