オンガク
五線譜はどこにでもあってどこにもない。おれの見ている全てが五線譜で、キャンバスで、星空だ。美しい景色なんて、とうの昔に消えてしまったけれど、いつだって手を伸ばせば届きそうな場所におれの世界は在る。
いつの間にか失くしてしまった世界に未練がないといえば嘘になる。でも、それでも。今、常におれは霊感に衝き動かされて生きているのだから、それはそれで幸せなのだ。美しい旋律も、涯のないメロディも、いつだっておれの手の中に在るのだから。たとえ、おれの世界がいつでも夜だったとしても、星が瞬く間は、ずっとおれのための、おれの世界なのだ。
「先輩は優しいですね」
モヨ子の声は好きだ。きっといい歌を歌う。ピッチがきちんと取れるかは別として、人を惹きつける彼女の性格がよく出ていると思う。優しく子供の頭を撫でる温かい掌のような声。
「そうか? モヨ子は面白いからな。教えて楽しいんだ」
曲作りを教えてほしいと請うたモヨ子を、敵だからと突っ撥ねることもできた。それでもそうしなかったのは、モヨ子の中に燻る熱を見たからだ。それはまだ赤い色をしていて、熟れきってはいない。強い風が吹けば消えてしまうかもしれないもの。ただ、おれはその灯に昔のおれを見た気がしたのだ。失くしてしまったおれと、これから始まっていくモヨ子。
既に革命の狼煙を上げていたモヨ子に夢を見るのは、老いと、失くしてしまったものへの憧れか。
おれはモヨ子に何かを託そうと、曲作りを教えることを承諾した。
いつだってそう、何かを産み出すということは、己の肉を、骨を削っていかなければならない。その痛みに耐えた者だけが、真実の作品を作れるのだと信じている。手癖で作れるのも才能のひとつだけれど、確実に歴史に名を刻みたいのであれば、誰かの心を本当に掴みたいのであれば、己をなげうって作るべきなのだ。
おれはそうやって、モヨ子に己の殺し方を教えている。
本当ならば、モヨ子のためにはならないのかもしれない。けれど、手癖での作り方を教えたところで彼女は満足しないだろうし、望んでもいないはずだ。いや、そうであってほしい。昔のおれみたいに。
練習の合間にやって来るモヨ子に、おれは作曲のいろはを教えていた。きっと霊感なんてものは誰も理解しないだろうし、おれも諦めている。それでも食らい付くモヨ子が面白くて、おれはすっかり絆されていた。
「まあ、モヨ子は飲み込みが早いから」
床に散らばった五線譜を集める背中に、おれは声を投げる。おれの声は、モヨ子にはどんな風に聞こえるのだろうか。
「ありがとうございます」
こちらを振り返って微笑むモヨ子に、思わずおれも口角を上げる。ルカたん程ではないけれど、モヨ子もかわいくて仕方がないと最近思うようになった。そう思うと同時に、何か薄暗いどろりとしたものが、血液に混ざる気がする。これを曲にぶつけたら、どうなるのだろうか。いや、この細い肩に、背中にぶつけたら。
そこまで考えて、おれは思考をこちらに引き寄せる。いつもならばこのまま妄想の向こうへ行くのだけれど、これは何か危ないもののような気がするのだ。
ぶつけてはいけないもの。ヒトとして在るべきのもの。それまで棄ててしまったら、おれは。
「片付け、終わりましたよ」
すごく遠いところで、モヨ子の声がした。
「先輩?」
すごくすごく遠い。ずっとずっと先。
「月永先輩?」
おれの名前だ。手を伸ばせばきっと、届く距離。どろりと血液に混ざった黒色が、目の前を覆って上手く見えない、その先。
懐かしいこの感覚。おれがおれを失くした最初によく似ている。おれの世界が、おれの色彩が、夜に包まれていく。
「レオ先輩」
体温が触れた。おれの右手に、しっかりとした感触がある。
――ああ、ダメなのにな。
おれはその体温を強く引いた。おれの胸に、また、体温の塊。
「どうしたんですか、先輩」
おれの名前。次第に晴れていく黒は、きっとその明るく照らす大きな月に負けたのだ。
果たして、本当に月なのか。月の奥に燻る火は太陽のそれだ。
ああ、そうか。きっとおれの世界がすっかり夜に飲まれてしまったから。太陽の虹色が届いて来ないだけなのだ。
「こんなに悲しいことがあるだろうか! これは悲劇! アイスキュロスも、ソポクレスだって、エウリピデスでさえも描くことのできなかった悲劇だっ! ひっくり返れ、アリストテレス! これがおれの、おれだけの、おれの生きる悲劇だ!」
「先輩?」
ああ、その虹色で、あの時照らされていたら。たらればを言い出せばキリがないけれど、あの時モヨ子に出会っていたら。もしかしたら、おれは朝を、昼を失うことはなかったのかもしれない。
「おれはモヨ子が大好きだっ!」
だからおれは、モヨ子に、モヨ子の殺し方を教える。苦しむ必要のない苦しみを味わう方法を。
焦がれて死ぬのならば、一緒に夜の底へ落ちて死にたい。おれは、その相手にモヨ子を選んだだけの話だ。
だから、
「ずっと離さないからな」
醒めない夢へ、明けない夜へ、おれは太陽を抱いて灼かれながら沈んでいく。
← →