讃美歌


 こんな時間になるだなんて、思っていなかった。仕事自体は22時に終わったのだけれど、その後の処理に時間がかかりすぎてしまった。後片付け、スタッフさんに甘えて任せちゃってもよかったかもしれない。そう思うのも後の祭りだ。家族にはとっくに連絡してあって、地元駅に車で迎えに来てもらう予定にはなっている。目の前にドアがあって、それを開けたら自分の部屋につながってたらいいのに。そんなどうでもいいことを考えながら、疲労を引き摺ってスタジオを出た。
 今日の仕事はアパレルメーカーからの依頼だった。モデルを有するKnightsに振られたのは、当然といえば当然である。モデル慣れしている瀬名先輩や鳴上くんに倣って、朱桜くんもポージングしていた。朔間くんは器用で、あまり慣れていないとは思えないほど自然に仕事をこなしていた。月永先輩も、普段の奇行はなりを潜めていて、きちんと仕事はこなしていた。自分の番でない時は、いつも通りだったけれど。単純な撮影の仕事だったのだけれど、わたしにも仕事が振られていた。デート服をテーマに撮影を進めていく中で、リアルな女子高生の意見を聞きたいと言われ、それぞれの衣装、コーディネートに対しての意見を求められていたのだ。デートなんてしたことがないのに。最初はお断りしたのだけれど、先方のどうしてもという声を無下にもできず、流されるようにコメントをしていた。本当に参考になったかは分からないけれど。

「つっかれた」

 脳内の普段使わない部分を頗る機能させてしまった。変な頭痛がする。思わず言葉が漏れ出てしまったけれど、もう誰もいないから大丈夫だろうと思った。

「俺も待ちくたびれたよ」

 スタジオを出た廊下で、チロチロと灯る赤が笑った。

「朔間くん!」

 びっくりした。そもそもなんで待っているのかとかそういったことも全部ひっくるめてびっくりした。

「夜道は危ないよ、モヨ子」

「そう、だけど」

「だから俺が送ってあげる〜」

 ニコニコと機嫌良さそうに笑う彼が、わたしの手首を掴んだ。そうだ、彼は吸血鬼なんだった。機嫌がいいのは、純粋に活動時間なのだからだろう。

「ありがとう、でも」

「だから、女の子が一人で歩くには危ないってば」

 掴んでいた手首を強く引かれて、彼の腕の中に倒れこむ。その隙に、首筋に生暖かい呼気と尖った何かが当てられた。それが何か分かって、ヒュッと息を呑んでしまう。

「ほら、ね? 危ないでしょ」

 だから大人しく一緒に帰ろう、とそのまま囁かれて、彼の気配が離れていった。

「心臓出るかと思った」

「そんなに簡単に出てたら、何回死んだって足りないよ」

 彼はいつにもなく朗らかに笑いながら、変わらずわたしの手首を引いて歩く。スタジオのある建物を出て、真っ暗な街を行く。星は冴え冴えときらめいて、澄んだ空気が肺を貫く。高層ビルの明かりも、余計綺麗に見えた。

「静かだね」

「このくらいの時間は、まだまだ、うるさい方かな」

「そうなんだ」

 さすが夜行性。

「朔間くん、なんでずっと待っててくれたの?」

「んー? なんでかなあ」

 彼のさらさらの髪が揺れる。後頭部からじゃ、彼がどんな表情や感情を浮かべているかなんて分からない。それが少しだけ不安で、わたしはちょっぴり歩みを早めた。

「モヨ子、頑張ってたじゃん。いっぱい仕事してたじゃん。褒めてあげようと思って」

「頑張ってたのはみんなも同じだよ」

「普段から頑張りすぎてるモヨ子のこと、いくら褒めたって足りないくらいだと思うけど?」

 相変わらず朔間くんの表情は窺えなかったけれど、それでも、優しい言葉に心が解されていく。それくらいには硬く張りつめていたみたい。そして、疲れていたみたい。

「だから今日は、俺がお礼をする番ね」

「持ち回り制なの?」

「んーん、気分制」

 思わず笑ってしまったけれど、その気まぐれが嬉しかった。
 駅が近づいて、彼はマスクと眼鏡をかけ始めた。離された手首に残った温もりが、夜の空気に溶けていってしまうのが少し寂しい。
 暗い街並みの中で、ぽっかりと光の穴が口を開けている。終電が近くなって、逃すまいと多くの人がそこへ吸い込まれていく。わたしたちもその流れに乗って、光の穴に飛び込んだ。

「終電近くって、こんなに人多いの?」

「そうみたい。みんな大変だね」

 一様に疲れた顔を浮かべた乗客を見渡して、わたしも一人だったら同じような顔をしているのだろうと思った。夜を走る車窓に映る自分の顔は、朔間くんのお陰かまだイキイキしているように見えた。
 黒い世界を縫うように走る窓には、次第に高さを失う光が透けだした。地名も住宅街のものになってきて、そろそろ地元駅に着くというのに、なんだか違う世界を進んでいるみたいだ。

「もうすぐ?」

「うん」

 車内では人目を気にして、あまり朔間くんと話すことができなかった。さっきみたいに、どうでもいいことをつらつらともっと話したかったのに。地元の駅名が放送されて、わたしは荷物を抱えなおした。

「今日はありがとう。お疲れさま」

「うん、モヨ子もお疲れさま」

「送ってくれたの、本当に嬉しかったよ」

「そう?」

「うん」

 ドアが開いて、わたしはホームへ降り立つ。手を振ろうと振り返ったところで、目の前に人の胸があった。

「どうして」

 発車ベルが鳴って、ドアは閉まってしまう。

「朔間くん」

「送るって言ったじゃん」

「でも、迎え来てるし」

「じゃあ、そこまで」

 朔間くんの背中には、もう電車はいない。

「嬉しいけど、でも、どうして」

 まだ戸惑っているわたしの手首をまた掴んで、朔間くんはホームから延びた階段を下っていく。わたしも引っ張られるように、階段を下っていく。

「言ったじゃん」

 彼は階段を降り切って、振り返った。丁度同じ目線に立って、なんだか照れ臭くなる。

「女の子が一人で歩くには危ないって」

 そう言って、彼の顔が近づいた。ちゅ、と小さく音が鳴って、冷えた唇が熱に触れた。それが何だったかに気付いて、そこから熱が広がっていく。

「駄賃はもらったからねぇ」

 彼はそう言って笑う。わたしは笑えなくて、立ちすくんだままだ。

「二人でも危なかったじゃん……」

 朔間くんに手を引かれて、わたしも階段を降り切ってしまう。目の前にはもう、改札しかない。

「俺は吸血鬼だから、モヨ子は最初からずっと一人だったよ」

 背中をとん、と押されて、一歩踏み出した。もう後ろに朔間くんがいないような気がして、怖くて振り返ることができない。

「今日はありがとう」

 思い切って声を上げる。

「おやすみ、モヨ子」

 朔間くんの声がして、わたしは改札へ走った。明日会ったら、改めてお礼を言おうと考えながら。

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