サイレントノイズ


 キンと冷えた空気に、真っ白な息を吐き出す。でもそれは、絶えず降り注ぐ雪に掻き消されてしまった。
 この悪天候でも、ありがたいのは積もっていないことだ。湿気を多く含んだものだから、積もることはないだろう。とはいえ寒い。いつもの通学路なのに、倍以上の距離を歩いた感覚がする。

「おっはよ〜」

 学校まであと少しの距離。シャッターの降りた小さな商店の軒下から声が掛かった。

「あ、おはよう、ございます」

 雪の影響を受けていない小さなスペースにごろりと転がって、月永先輩は相変わらず楽譜に音符を書き殴っていた。

「先輩、体冷えませんか?」

「んー? そう言われてみると寒いような……? でもあと少しだから動くわけにもいかないんだよなあ」

 天才とは難儀な生き物だなと、彼を見て思う。霊感に突き動かされて行動する分、身体的リスクが高いのだ。わたしがそんなことを考えている間にも、彼の手は休まずメロディを書き連ねている。男性にしては小さめな口からは、きっと今書き上げられつつある音が小さく漏れていた。
 先輩のつま先の傍にある自販機でホットココアをふたつ買った。

「先輩」

 缶のプルタブは起こさずに、それを差し出す。

「よかったら、どうぞ」

「ああ、ありがとう!」

 笑顔でそれを受け取って、楽譜を押さえる左手で握りこんだ。わたしはそれを横目に、同じく軒下に座り込んだ。

「行かないのか?」

「はい」

「もうちょっとかかりそうだけど」

「いいんです」

 プルタブを起こして、まだ少し熱いココアを口に含む。自分で淹れるよりもずっと甘くて、すこしだけ幸せな気持ちになった。
 座り込んだ軒下から見上げた電線には、こんな天気なのにカラスがとまっている。微かに聞こえる歌と灰色の空のせいで、天使みたいに見えた。

「なあ、モヨ子」

「はい」

「あのカラス、天使だったらいいのにな」

 飲みかけたココアが変なところに入って、ひどく咽た。

「お、おい、大丈夫か?」

 しばらく咳き込んだあと、笑いが止まらなくなってしまう。

「おい?」

「可愛い天使ですね」

 先輩は楽譜を書き終えたのか、散らばったそれらを軽くまとめている。

「天使は綺麗か可愛くなきゃ、うそだろ?」

 そう言って笑った。

「例えば、妹さんとか」

「そう! るかたんは大天使!」

 少しぬるくなってしまっただろうココアのプルタブを起こして、先輩は胡坐をかいて座った。

「カラスは綺麗ですか」

「よく見ると可愛いよ、あいつら」

「なるほど」

 先輩の吐く息もまた、雪に溶けていく。

「Knightsのみんなも可愛いし。モヨ子は綺麗だ」

「は」

「なんだその顔〜」

 なんだと言われても、突然綺麗だと言われて驚かない方が無理な話だ。

「本当に綺麗だぞ、おまえ」

「……あ、ありがとうございます」

 何が何だか分からなくて、一息に残りのココアを飲み干した。

「また咽るぞ?」

「平気です」

 缶を突き出して笑ってみせた。それと一緒に先輩も笑う。

「じゃあ、行くか」

 先輩は立ち上がって、わたしに手を差し出した。わたしは少しだけ躊躇って、それに手を伸ばす。

「道案内は頼むな!」

 手を繋いだまま最高の笑顔で言い切る先輩に、思わず笑ってしまう。

「うん、やっぱり綺麗だ」

 繋いだ手の力が、少しだけ強くなった。学校までの距離が、倍以上、そのもっともっと倍以上になればいいのに、なんて少しだけ思った。

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