ロマンスのスタート
センチメンタルに浸るなんて、最高にナンセンスな行為だ。もう二度と会えないのならば、それまでだったと諦めればいい。二度と会えない人へは、それなりの行動を起こすはずだからである。
何度も練習させられて、完全に作業化してしまった儀式なのに、号泣する女の子。わたしも、ああいう女の子であれればよかった。
一切面識のない下級生の「さみしいです」。初対面の人間にそんなことを言われれば、更にわたしの体温は冷え切っていく。足元から氷のような冷たさが巡って、体中を冷やして、やがて心臓に達して死ぬ。そんな妄想をして、小さくほくそ笑んだ。
体育館は知らない顔だらけで、少数の知っている人のうち、更に少数の親しい人たちとの別れを心の底でひっそりと惜しんだ。
とはいえ、連絡先は知っている訳だから、会おうと思えば会える。連絡をとらなければそれまでという話なのだ。
心はすっかり新生活へ、とはいくはずもなく、ただ、単純に、形式化しきってしまったこの儀式の終わりをひたすら願うだけだ。
制服の胸に飾られた花は、瑞々しく咲いている。まだ、この儀式は終わらない。
「なあ」
本当に小さく、隣に座った男の子が声を発した。彼の向こう隣と、わたししか反応していない。彼は、微かにこちらを向いていた。
「わたし?」
同じくらい小さな声で返事をする。彼は小さく頷いて、そしてまっすぐ前を見た。
「呉って、どこ行くんだっけ?」
わたしも彼に倣って、前を向く。
「隣駅のところ」
最寄駅の隣に、女子校があった。わたしは来月から、そこへ通う予定になっている。
「そっか」
彼は素っ気なく、そう答えた。
微かに目線を彼に向けたけれど、相変わらずまっすぐ前を向いたままだった。相変わらず、綺麗な横顔だ。
この学年で、この学校で、彼を知らない人間はいないと思う。衣更真緒。スポーツ万能、成績優秀、人当たりのいい人気者。そして、イケメン。少女漫画のヒーローみたいに完璧な彼は、きっとこの学校の殆どの女子のハートを射止めてきたし、殆どの男子の恨みを買うこともなかっただろう。
更に彼を有名にしたのが、彼の受験だった。夢ノ咲のアイドル科へ行くというニュースは瞬く間に広まって、彼の人気を余計に高めた。みんな、青田買いをしようとしたのだろう。
わたしが彼と同じクラスになることは一度もなかったし、話すことも殆どなかった。彼との接点は、この身震いがするほど退屈な儀式だけだった。
十戒よろしく体育館の中央で分割された座席は、更に目印などなくクラス毎にブロック分けがなされていた。丁度、そのクラスの狭間を担ったわたしは、同じ狭間の衣更君の隣に座ることになったのだ。普通なら衣更なんて苗字は随分前の方になるのだけれど、彼のクラスにはア行の苗字が八人もいる。クラス分けの会議はどうなっていたのだろうかと、今更ながら少し気になった。
「衣更くんは有名だから、知ってるよ」
この席に座ってから、幾度となく互いの苗字を呼ばれていたから、きっと彼はわたしの苗字を覚えてしまったのだろう。この席に何時間も座っているから、わたしは彼の綺麗な横顔をすっかり覚えてしまったのだから。
「……はは」
極まり悪そうに、彼は笑った。散々いじられ尽くしたネタなのだろう、悪いことを言ってしまったかもしれない。
「なあ、呉」
彼がわたしに何かを言いかけたタイミングで、学年主任が起立と声を張り上げた。彼はそれきり言葉を引っ込めて、わたしものろのろと皆に合わせて立ち上がる。
舞台に置かれたグランドピアノが、定番の曲を演奏し始めた。全く感じていないわが師への恩を、しぶしぶ歌わされる、これもまた儀式の一環だった。
「着席」
すっかり冷えてしまった座席に腰を下ろす。制服のスカートから、椅子の冷たさが這い上がってきて、泣きそうだった。
「これ」
また、小さく衣更くんの声がして、わたしはそちらを向く。膝の上に置いた手に、何か小さくぐしゃりと丸まったものを握らされた。
「卒業生、退場」
衣更くんのクラス全員が立ち上がって、わたしは呆けたまま、立ち上がった彼を見つめていた。
彼のクラスが隊列を成して、地獄みたいな冷たさの体育館から去っていく。わたしはぼんやりとそれを見届けて、そしてまた、クラスメイトに少しだけ遅れて立ち上がった。
教室で飛び交う、妙に興奮した声と、スマートフォンのシャッター音。いつも以上にうるさいはずなのに、それらがあまり気にならなかった。
そっと机の中に手を差し入れて、先ほど握らされたものを開いた。綺麗に四角く切り取られたルーズリーフに、無料通信アプリのIDが記されている。ああ、人の目から隠して開いてよかった、と少し思った。
それから、どうしてこんなものを握らされたのかを考えた。
悪戯をするような人だとは考えにくいし、でも、殆ど会話したことがない。そんな人間に、これから誰よりも輝かしい未来を約束されたような人間が連絡先なんて大切なものを渡すだろうか。性善説を信じているようなお人好しか、それとも、何か用事でもあるのだろうか。わたしに特殊な能力などありはしないけれど、可能性としては後者の方が高そうだ。とりあえず、IDを追加してみよう。
寄せ書きをするために作られた卒業アルバムの空白ページ。こんなことすら予定調和なのだ、儀式ってものは。わたしはそこにメッセージを書きながら、全く違う人を思い浮かべているというのに。
そっとスマートフォンを取り出して、また、机で隠すようにアプリを開いた。IDを入力して、検索。表示されたニックネームとアイコンは、彼のもので間違いなさそうだった。
「呉です」
それだけ打って、送信した。
メッセージの既読表示はすぐついて、それから、すぐに返信がきた。
「追加ありがとう。衣更です。よろしくな!」
「てか、素気なさすぎ(笑)」
なんだか、彼らしい口調で、話しているそのまますぎて、おかしくなってしまった。
「どうして、IDくれたの?」
「今まで全然話したことなかったけど、少し話してみて面白いなって思って」
少し話したといっても、殆ど愚痴しか言っていなかったような気がする。
「あと、歌声がキレイだったから」
意外だった。今までそんなこと言われたこともなかった。まずやる気を出して歌ったことなど全くなかったのだけれど、それでも、彼はわたしの歌を聞いてくれていたのだ。それはとても恥ずかしくて、それと一緒に、むず痒いような嬉しさがこみ上げてくる。
クラスを一周して帰ってきた卒業アルバムは、緩む口元を隠すにはもってこいだった。
「ありがとう。そんなこと褒められたのはじめてだから、嬉しい」
きっと、面と向かってそんなことを言われたら、何も返せないだろう。そういう点で、文字というのはとても便利だ。字面からなら、今、妙に舞い上がっている姿など想像できないだろう。
「なんか照れるな(笑)」
それはこちらのセリフだ、とは返さなかった。というか、それきり返さなかった。返す内容が思い浮かばなかったし、ずるずる引き摺るのもなんだか気が引けた。
丁度教室には担任が来て、何やら話し始めたし、わたしはそっとスマートフォンの画面を消した。
「素っ気ないにも程があるだろ」
教室を出たのは最後の方だった。仲の良い女の子数人と話し込んで、またね、と言ったら、教室はさっぱりとしてしまっていた。慌てて重たいアルバムを鞄に突っ込んで、教室を出たところでみんなと別れた。
何気なく開いたスマートフォンの画面に、さっき連絡先を交換した男の子からの着信履歴があったのだ。
「……なんだか、すみません」
ちょっと寄るところがあるから、と彼女たちと別れて、人気の少ない図書室の前でかけ直した。彼は教室に残っているということだったので、わたしはまた、先ほどまでいた教室の並びへ戻っていった。
「まあ、呉らしいけど」
開口一番、素っ気ないと言われてしまって、謝るしかできなかった。これがわたしらしさならば、許してほしい。
「なあ、ここ」
彼の席だろう机には、開かれた卒業アルバムがあった。予定調和のページ。予め用意された、思い出作りのためのページ。
「呉に、書いてほしいんだけど……」
ペンを差し出されて、何も考えずに受け取った。あまり接点のなかった人に、どんなメッセージを書けばいいのか分からない。
「何を書けばいいの」
「何って」
「わたし、衣更君と接点持ったの、最近だし。これまでの衣更君をあんまり知らない」
彼の活躍は嫌でも目についたから、知っている。でも、彼のパーソナルな部分については聞き知っている程度なのだ。だから、彼を知らない。
「……あ」
言葉に詰まってしまった彼に謝ることも忘れて、わたしは思いついたことを用意されていた空白に書き込んだ。
「はい」
開いたそのままに、彼に手渡した。
衣更君の髪の色は燃えるように赤くて、でも、夕焼けに溶けてしまわない、強い色だなんてぼんやり思った。文字を目で追う、彼を見詰めて。
「……おい、これは、反則だって」
彼は急に真っ赤になって、そしてアルバムを抱きしめた。
「だって、今のわたしから言えるのは、これだけだし」
それに、もし万が一、最高に希望的観測が当たっていたとしたら、彼が望んでいるのも、わたしと同じメッセージだと思ったのだ。
「どうして、連絡先なんてくれたの?」
「呉のこと、面白いなって、思って、それから、歌声もキレイで……」
さっきのメッセージと同じ内容だ。でも、声から、表情から伝わるメッセージはとても強い。熱量が多すぎて、眩んでしまいそうだ。
「これからの呉のことを知っていきたいと思ったから」
これまでよりも強く、まっすぐな声。視線。それだけで殺されてしまいそうだ。これがアイドルになろうとする男の子なんだ。圧倒的にオーラが違う。持っている力が違う。そんな人に、そんなことを言われてしまったら、誰だって頷かずにはいられない。
「ありがとう。これから、よろしくね」
差し出した右手に、力強くて分厚い掌が重ねられた。
視線を下げた拍子に、胸の花が目に入った。瑞々しさを失って、少し萎れている。きっと、彼の熱量にやられてしまったのだと思う。
来月からのことなんてもう考えられないくらいに、どうしようもなく頭の中をいっぱいにさせられて、わたしは中学校を卒業した。二度と会えなくなる人はそれまで。それまでだったと諦めればいい。でも、わたしは「またね」と見送った友人たちの誰よりも、行動を起こしたい人ができてしまった。また会いたい人ができてしまった。ここに通う最後の日に。
「これからの衣更君のことを知っていきたいと思います」
思い出して恥ずかしくなって、死んでしまいたくなった。けど、やめた。スマートフォンから、新着メッセージの通知音が聞こえたからだ。
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