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雨が降る音がする。窓に叩き付けられる雨粒の悲鳴みたいな音が。
――これは、誰の悲鳴なんだろう。
キンと痛みを伴うような耳鳴りがして、両手で耳を覆った。けれど、その音が止む訳はなかった。
誰もいない教室、その伽藍堂の隅っこで、わたしは身を小さくしてじっと耐えていた。
「モヨ子?」
その声に珍しく名前を呼ばれた。でも、わたしは上手く反応できずに、ぼんやりと視線を上げるだけだった。
「モヨ子、ちょっと、しっかりしなよ!」
語気の強さも、わたしの肩を掴む手の力強さも、なんだか意外な程心地よくて、少しだけ瞼を閉じた。
「過労だってさ」
吐き捨てるように言い放たれたその単語に、わたしは苦笑いを浮かべることしかできなかった。よく考えればここのところイベント続きで、ろくに眠っていなかったし、ご飯を食べる時間も惜しくて、ゼリー飲料ばかり口にしていたように思う。自己管理もできないくせに、という小言が聞こえてきて、わたしは俯くことしかできなかった
「そもそも、あんたは俺の貴重な時間を奪ったって自覚、ある訳?」
「申し訳ありません」
絞り出すように口にした。この人は自分に厳しい分、人にも厳しい。彼の言わんとしていることも、彼の言うことも、いつだって正しいのだ。正論の前では首を垂れることしかできない。だから、いつも素直に謝るようにしている。
「……まあ、俺だって、いつまでも病人に小言を言う程嫌味な人間じゃないしねぇ」
彼は小さくため息を吐いて、わたしの額に手を当てた。
「自分の体の悲鳴くらい、ちゃんと聞き取ってやりなよ」
優しい声のトーンが、ストンと体の中に染み渡っていく。
「それと、心と」
そう言って、彼の目が少しだけ細められた。どこか遠くを見ているようで、わたしは背後にある窓を見遣った。相変わらず昏い空からは鉛玉みたいな雨が零れてきていて、窓に叩き付けられる度に悲鳴をあげていた。
「瀬名先輩」
「何?」
わたしは窓に映り込んだ、明るい室内に向けて声を放った。白ばかりの保健室の中で、たった一人だけ、昏い空に溶けてしまったような髪がぼやけている。
「先輩も、自分の悲鳴、聞き取ってあげなくちゃいけないんじゃないですか」
「何、生意気なこと言ってるの」
「経験者は語る、みたいな感じです」
振り返ると、ほんの少しだけ強張った先輩の顔があった。
「俺は、きちんと自己管理できてるからいいの」
「ですよね、瀬名先輩ですから」
わたしの言葉に、先輩の瞳が少しだけ揺らいだ。
――ああ、やっぱりだ。手を離されてしまうと、途端に怪物に襲われて、脆くなってしまう。
「だから、そんな先輩が悲鳴をあげた時に、しっかり支えられるようにならないと」
いけませんよね、そう続けて、わたしは先輩の手を取った。白いシーツの上に引き寄せて、強く握った。
「ほんっと、生意気」
握った手を振りほどかれて、額を軽く小突かれてしまった。
「そういうのは、まだ、いいから。まずは自分のことでしょ?」
「はい」
まだ、という小さな言葉を拾って、反芻した。いずれ、わたしにそれを求めてくれるのだろうか。求められるようになりたい。
「先輩」
「うるさい。いいから寝なよ」
「先輩」
「だから、何」
「……おやすみなさい」
「……おやすみ」
保健室の、重たくて薄っぺらい布団に潜り込んだ。雨音の悲鳴も、先輩の呼吸も、何もかもがシャットアウトされる。だけど、先輩の声が小さくわたしの名前を呼んだのは、聞き漏らさなかった。
いつか求められるように、求められて、応えられるように。一瞬握った指先が、縋るように、少しだけわたしの掌を引っ掻いた感触を握りしめた。
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