天翔る
黒を切り取った窓の縁で、カーテンが揺れていた。遠い夜が街の明かりで霞んでいる。部屋の電気を消して、切り取られた夜に目を凝らした。
空を見るのが好きだった。特に、星の煌めく夜空が。志望校合格を理由に買ってもらった手持ちの望遠鏡を覗くのが、夜の楽しみだった。窓から乗り出して、空を見上げる。チラチラと瞬く星々を観察しては、うっとりと息を吐く。
学校には天文部がない。あっても、きっと入部しなかっただろう。ルールに縛られてしまったら、楽しみは楽しくなくなってしまう、そういう性分なのだ。
流星は簡単に見ることができる。流星群が来ていなくても、だ。勿論数は少ないけれど、それでも、じっと目を凝らして空を見つめていれば、ちゃんと見つける事ができる。
「……」
何を願うでもないけれど、そっと目を閉じた。瞼の裏で、白い光の軌跡が走る。
昨晩から今朝にかけて、大雨が降っていた。そのお蔭か、今夜は空が澄んでいる。
もっと空が見たい。
「ちょっと、公園行ってくる」
わたしは部屋着にパーカーを羽織って、望遠鏡を手に表へ出た。
適当に足を引っかけたサンダルがもたつく。近くの公園へ行くだけなのに、もどかしくて堪らない。公園に着くまで空を見上げないように我慢しながら、ぺたぺたと足を進める。
上がった息を整えながら、わたしは街灯から離れたベンチに腰を下ろした。思った通り、公園は空が広い。わたしは望遠鏡を構えて、覗き込んだ。
「え」
真っ暗だった。カメラのレンズカバーをつけっぱなしにしてしまったように、完全な黒。
「モヨ子」
聞き覚えのある、少し高めの声。まだ少年らしいその声に、望遠鏡から目を外した。
「月永くん」
彼はけらけらと笑いながら、望遠鏡のレンズに手を翳していた。
「何、いじわるしてるの」
「モヨ子のこと、見かけたから」
答えになっていなかったけれど、追及する気にもならなかった。俗に言う幼馴染の彼は、幼い頃から様々な才能に恵まれていた。見た目も整っていたし、羨ましい程顔は小さかったし、彼がアイドル育成の学校へ通い始めた時は、やはり、という気持ちでいっぱいだった。
「妄想しなくても分かるぞ! 星か? 星だろっ」
「さすが月永くん」
彼はわたしの趣味を知っていたし、無理に理解しようとしない距離で見守っていてくれた。幼い頃から、ずっと。
「妄想の余地がなくてごめんね」
わたしが笑うと、彼も一緒になって笑った。
「今日はね、空がすごくきれいで、星が沢山見えるの」
彼の隣は、落ち着く場所だった。だから、つい、あの頃のような口調になってしまう。彼とは同級生のはずなのに、彼に妹がいるからだろうか、少し甘えてしまう癖が抜けない。
「おれも、それ、覗いていいか?」
彼はわたしの望遠鏡を指差した。
「どうぞ」
わたしの手から望遠鏡を受け取って、彼は空を覗き込んだ。彼の見つめる方向をぼんやりと見つめた。この公園は穴場のように暗いから、星を眺めるには丁度いいのだ。肉眼でもかなりの数を見ることができる。
「なあ、なあ」
望遠鏡を覗いたまま、彼はわたしの腕を強く揺さぶった。無邪気な男の子の力強さが、少し嬉しい。あの学校に入ってから、彼は大人気のアイドルになってしまったから。わたしの手の届かないところに行ってしまったと思っていたから。だから、こんなに近くに居ると実感できることが嬉しくてたまらないのだ。
「なあに」
「あれ、天の川か?」
「え」
この公園はかなり暗いけれど、この街自体はとても明るい。望遠鏡はどうか分からないけれど、肉眼ではさっぱり見ることができない。
「ほら、モヨ子、あれだっ、あれ」
彼は嬉しそうにはしゃいでいて、わたしはそれが羨ましかった。
「肉眼じゃ見えないかな」
「心の目で見ろ」
「んなむちゃくちゃな」
笑って、彼に少しだけ近付いた。そうしたら、彼の見ているものが見えるような気がしたのだ。
「あったかいな」
「生きてるから」
彼の見る先はちっとも分からなかった。彼の考えていることも、年齢を重ねる毎に分からなくなっていった。彼の言動も次第に難しくなって、存在も遠くなってしまって、彼が手の届かない存在になってしまったということを嫌という程思い知らされる。こうして隣に座っていられるのは奇跡で、あの頃のように言葉を交わす事も有り得ない事なのだ。
「モヨ子」
「うん」
「おまえが好きな星、おれも好きだぞ」
「ありがと」
「うん」
彼は満足そうに笑って、わたしの膝の上に望遠鏡を乗せた。
「天の川なんてありきたりでつまらないけど、ありきたりにはありきたりの良さっていうのもあるのかもしれないな」
彼は何の話をしているのだろうか。でも、彼が何か嬉しそうだから、それでいい。
「まあ、おれはありきたりなものなんて作る気はないけどな」
「新曲?」
「新曲はいつだって作ってるぞ」
「さすが」
彼の曲は好きだ。身内の贔屓を抜きにして、純粋に良いと思っている。音楽なんてさっぱり分かりはしないけれど。
「楽しみにしてる」
「ああ」
彼の笑う声が、耳に心地良い。うっとりと目を閉じて、眠気に気付いた。
「あ」
「あ?」
「今、何時?」
「何時だっけ?」
彼の素っ頓狂な答えに慌てた。家を飛び出たから、スマホも持っていない。あまり遅く帰ってしまっては、今後、夜間の外出を禁じられる可能性がある。
「月永くん、携帯とか持ってる?」
「ああ、一応」
彼の取り出したそれを奪い取って、時計を表示させた。
「……あ」
日付が変わる。デジタル表示の数字が切り替わって、すごくシンプルな表示になる。日付も変わる。日付が、変わった。
「……おめでとう」
「ん?」
「お誕生日、おめでとう」
小さい頃からだから、忘れるはずがなかった。ずっとずっと祝ってきた日なのだから。
「ん? ああ」
彼も画面表示を覗き込む。
「月永くん、お誕生日おめでとう」
改めて、今度は彼の目を見て言い直す。彼の真っ直ぐな目が、スマホの光を反射して煌めく。
「一番に言えて嬉しい」
「おれも嬉しい」
顔を見合わせて笑った。何が面白い訳でもなかったけれど。
「プレゼント、何がほしい?」
「そうだな」
また会う口実が欲しくて、咄嗟に聞いてしまった。何か高級なものを頼まれてしまったら困るのだけれど、言ってしまったものは仕方がない。バイトを増やしてでも彼の望むものを買おう。
「歌がほしい」
「歌?」
「おまえの、モヨ子の歌う歌がほしい」
「なんでも、いいの?」
「ああ」
頭の中は真っ白だった。なんでもいいと言われても、何も浮かばないのだ。今、思い浮かぶとしたら。
「じゃあ、Knightsの歌でも、怒らない?」
「当たり前だろ」
わたしは小さく息を吸い込んで、覚えている、忘れるはずのない、彼の作った曲を歌った。作った本人の目の前で歌うのは恥ずかしくて仕方がなかったけれど、彼が望むのだから。
「……えっと」
歌い終えて、沈黙が怖くて、パーカーの裾を掴んだ。
「……ありがとう」
彼の声がひどく柔らかくて、指から力が抜けていく。
「ありがとう」
今度は、いつも通りの声で。弾んだ調子の、明るい声。
「これで、よかった?」
「あと、もうひとつ」
「うん」
彼の手が、わたしの手を包んだ。無遠慮だけれど、あの頃と変わらない無邪気のまま。だから、わたしもそれを受け入れる。
「来年も、再来年も、ずっとずっと先まで、おれの誕生日を祝ってくれ」
「ずっと、先まで」
「そうだ、あの星の先まで、ず〜っとだ」
「……うん」
彼にはとんでもないことを言っている自覚はないのかもしれない。意識してしまっているのは、わたしだけなのかもしれないけれど。
「ずっとお祝いさせて、レオくん」
「ああ」
思い切って、あの頃の呼び方で読んでみた。少しむず痒くて、くすぐったかったけれど、彼の手に込められる力が強くなって、呼んで良かったのだと安心する。
「だから、あの頃みたいに、ずっと隣にいてくれ! これからも、ずっとずっと!」
「うん!」
彼はちゃんと分かっていた。ちゃんと知っていた。胸の奥がぎゅっと熱くなって、星がぼやける。
「さあ、帰ろう! おれが送っていくから」
手を引かれて、暗い公園を抜けていく。彼の鼻歌を一緒に歌いながら。また明日ねって別れるまで、続いていく。
← →