デートはやめよう
「血統書つきの猫に飽きたんでしょ?」
わたしの投げた言葉に、真緒くんは首を傾げた。それはそうだ、急にこんなこと言われたって訳が分からないだろう。
わたしは、真緒くんのベッドに我が物顔で寝転がったまま続けた。
「わたしみたいに変なのに手を出したのもさ、気まぐれとか、普通の人に飽きたからとか、そういうんでしょ」
そうじゃなきゃ、おかしい。完璧人間の真緒くんだから、わたしなんかに進んで手を出すはずがないんだ。幾ら世話好きだからって、よくよく知らない女の面倒をみようなんて思わないだろう。
「何言ってるんだ?」
真緒くんは床に敷いたラグに胡坐をかいていたのだけれど、わたしの顔を覗き込むようにこちらへやって来た。
ベッドが軋んで、彼がベッドに体重をかけたことを知る。それが少し怖くて、距離をとるように壁へと体を向けた。
「だって、真緒くん、おかしいよ」
「何が」
「真緒くん、完璧だから。わたしみたいな変なのと付き合ってるの、おかしい」
口に出してしまうと、それは一層当然のことのように思える。
「誰が完璧だよ」
「真緒くんだよ」
スポーツも家事も出来て、学校では生徒会に所属もしていて、何よりアイドルをやっている。世話好きでみんなから慕われて、信頼も厚くて、まるで殿上人だ。こうやって彼のベッドで寝転がっているわたしは、勉強もスポーツも普通、むしろ出来ない方かもしれないし、見た目だってごくごく普通だ。部活は帰宅部だし、スクールカーストでいえば下の方に居ることはよく分かっている。
彼と知り合ったのは、バイト先のコンビニだった。ただかっこいい人が居たものだな、と思ってぼんやり眺めていたら、彼が声をかけてきたのが切っ掛けだし、彼があの衣更真緒だっていうのは、シフトに入った日に必ず彼と顔を合わせるようになってしばらく経った頃に知った。
「あの、変なこと聞くんですけど、シフト入ってる日っていつですか?」
第一声がこれだったのだ。わたしはぼんやりしたままシフトを答えて、彼が買うスポーツドリンクのバーコードを読み取った。ピッという情けない音が、今も鮮明に蘇る。
彼はわたしのバイト先に通い詰めて、すっかり先輩や店長と親しくなっていた。周りを固められた頃には、わたしもいい気になっていて、あの衣更真緒の接客をしているのだと内心自慢に思っていた。
「呉さん」
バイト先から帰ろうと自転車に跨ったところで、彼の声がした。
「あ、はい」
わたしはこれまたなんとも情けない返事をして、彼に言われるまま送ってもらった。
「この辺で大丈夫です」
軽く頭を下げて、上げたら、赤い顔があった。
「あの、さ、呉さん。俺と付き合ってもらえませんか?」
「は?」
「いや、俺、呉さんに一目惚れしてて、いつも話す度にいいなって思ってて、それで、今日、初めてちゃんと話して、やっぱりいいなって思って、さ。……ああ、ハッキリしないとな。俺、呉さんのことが好きなんです。良かったら付き合ってください」
悪い冗談だと思ったのだけれど、彼の目はとんでもなくまっすぐで、どうやら嘘じゃないらしかった。そんな目で見つめられたこともなかったし、そりゃかっこいいしいいなって思っていたから、これまた情けない声を出しながら必死で頷いた。それが面白かったらしく、彼は困ったような笑顔を浮かべていて、わたしはその笑顔に落ちたのだ。
「モヨ子さ、そういう風に、突然変なこと思い詰めるの、悪い癖だぞ?」
あれからしばらく経って、すっかり敬語の抜けきった彼のの声は、いつだって酷く優しい。温かい指がわたしの髪を梳いて、甘やかす。
「でも」
「でも?」
「だって」
「だって?」
彼の穏やかな声に、ささくれ立ったわたしの心が凪いでいく。それでも、デモデモダッテが止まらない。
「やっぱり真緒くん、完璧だから、わたしは不釣り合いだし……」
彼の溜息が背中で聞こえた。ベッドがまた軋んで、背後から体温で覆われる。こういうの、狡い。分かっててやってるんでしょう。
「俺はモヨ子が好きだから付き合ってんの」
「知ってる」
「じゃあいいじゃん」
「よくない」
「何が?」
彼の手が、わたしの頬を擦る。狡い、どこまでも狡い。
「わたしが、まだ、真緒くん隣に並んじゃいけないの」
「なんだよ、それ」
「レベルっていうか、魂のステージっていうか、そういうのが違いすぎるの。だから」
だから、真緒くん、優しくしないで。優しくされると嬉しいけれど、わたしの心はもっと荒んでいく。水を遣りすぎるから、根腐れしていくんだよ。
「わたしが上がっていくか、真緒くんに降りてきてもらわないと、釣り合わないんだよ」
偏ったままのシーソーなんて、詰まらないでしょ。
「降りるって、どういうことだよ?」
「真緒くんは聖人君子だから、もっと、人間的に汚いようなところを見せるとか?」
漠然とした答えに真緒くんは笑って、わたしは頬を擦る手に噛みついた。
「痛っ!」
「馬鹿にするのが悪い」
そのまま手を甘噛みすると、不意に、妙に熱のこもった溜息が聞こえた。
「モヨ子さぁ、そういう誘い方、狡くない?」
「……は?」
誘うって、なに。そう聞く間もなく、真緒くんの体が覆いかぶさった。わたしは肩を掴まれて仰向けにされているし、天井の蛍光灯のせいで、真緒くんの顔が真っ黒で分からない。
……この黒い顔、わたしみたいだって思った。
真緒くんの顔が近付いて、声を出す間もなくキスされる。沢山、沢山のキス。いつもみたいな優しいキスとか、たまにするいやらしいキスとか、とにかく沢山。唇の体温も、舌の体温も、全部私の知っている真緒くんと少し違う。いつも通り、じゃなくて、いつもみたい。いつもが本当なのか、今が本当なのか、分からなくなる。
舌が吸われて、噛まれて、小さく声が漏れた。その声すら飲み込むみたいに、彼の舌がわたしの口の中を舐め回す。口の中、全部が暴かれる。
キスから解放された頃には、自分でも分かるくらい蕩けきっていた。口の周りは涎でべちゃべちゃで、拭いたい気持ちと、妙な勿体なさがせめぎ合っていた。
でも、わたしは動けない。間近にある真緒くんの目が、わたしの目をずっと覗き込んでいたから。
「人間的に汚い部分ってさ」
彼の声が少し高いのは、きっとわたしと同じく、昂っているからだ。
彼の指がわたしの唇をなぞって、優しく口の中に差し入れられた。
「モヨ子のことぐちゃぐちゃにしたいとかさ、本当は生活全部を掌握したいとかさ、俺なしじゃいられなくしたいとかさ、そういう部分のこと?」
口の中の指が、私の舌を絡めとって、さっきキスした時みたいな錯覚が起こる。
「モヨ子の気持ちとかお構いなしに、馬鹿みたいにセックスしたいとか、でも、モヨ子の気持ちも思考も全部欲しい、みたいな、こういう感情とか、そういうもののことか?」
わたしは頷くこともできなくて、絡めとられた舌を必死で動かした。踏まれた蛙みたいな変な声が漏れて、それでも真緒くんは笑わなかった。
これがきっと、真緒くんの本当なんだ。今までずっと甘やかして、手加減してくれていた。でも、ようやく。真緒くんの本当が見られて、わたしは嬉しかった。すごく人間らしい真緒くんに、わたしはまた深く落ちていく。
「……あ」
開きっぱなしだった口を閉じて、彼の指にしゃぶりついた。驚いて動きを止める彼の指に必死に舌を絡めて、吸い付く。
「ん」
指の股まで思い切り吸い付いて、離した。彼の指からわたしの涎が垂れて、熱を持った唇を更に実感する。
「真緒くんのこと、もっと好きになった」
放ったままの両腕を持ち上げて、その首に絡めた。
「ぐちゃぐちゃにしてよ」
「Mだっけ?」
「そうかも」
お互いに面白くなって、またキスをした。
もっと曝け出して欲しくて、彼の口に舌を潜り込ませる。短くて、先端だけしか入らないけれど、それでも彼を暴きたくて、必死で動かす。
「ねえ、真緒くん、汚いセックスしようよ」
それでも、きっと、彼なら完璧なんだろうなって、ぼんやり思った。
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