もっとも美しいもの


 小さい頃、将来の夢はなあに、と聞かれたら、必ずお姫様と答えていた。みんな、一度は憧れる、お姫様。いつか白馬の王子様が迎えに来て、わたしに愛を囁くの。まだ愛の正体も知らぬうちから、そんな夢を見ていた。

 将来の夢だなんて漠然とした質問もされなくなって、将来の夢だなんて未来を描くこともなくなった。わたしはプロデューサーになるための勉強をし、経験を積んでいる。将来の夢なんかじゃない、近い未来のための準備をしているのだ。
 当たり前の日々を懸命にこなす。それだけで精一杯だった。いっぱいいっぱいのまま、毎日を過ごす。



 真っ新なノートを広げて、わたしは次の企画を練っていた。楽しい企画。面白い企画。みんなが、幸せになれる企画。漠然としたものを練って、立ち上げて、形にする。わたしはこの作業が一番苦手だった。
 ノートにはシャープペンシルで、様々な言葉を書き殴った。こういったメモから何かが生まれることもあるのだ。

「死にたい」

 沢山の言葉で埋まったメモの中、ひとつだけ、暗い言葉が書かれていた。酷く驚いて、慌てて消しゴムで消した。
 死ぬことは人間として当然のことだ。人はひとつだけ、たったひとつだけ平等に与えられた死に向かって歩んでいる。それが早いか遅いかは別として。
 大きなため息を吐いて、ノートを閉じた。その上に突っ伏して、瞼を閉じる。
 ガーデンテラスの隅、わたしの特等席と化しているこの席は、厳しい日射しから上手く逃げられる。ひんやりとした空気が眠気を誘った。うつらうつら、と、次第に意識が明滅する。

「おーい、おーい」

 雑に肩を揺さぶられて、わたしは意識を取り戻す。夕日の色が射し込んだ。

「やっと起きたか! おまえのこと、探したんだぞ?」

「……あ、すみません」

 約束してましたっけ。そう続けながら、わたしは足元の鞄を探った。スケジュール帳はすぐ取り出せるところに仕舞ってある。

「いや、約束はしてないぞ」

 あっけらかんとそう言ってのける彼の、夕日色の髪が眩しかった。

「用事は……」

「んー、忘れたっ」

 でしょうね、という言葉を飲み込んで、テーブルを挟んで向かいの席をすすめた。彼はまた荒い動作でそこへ座って、わたしの前でにこにことしている。

「なんでしょうね?」

 机に放っていたシャープペンシルを拾って、指先で遊んだ。いつも使っている、淡い桃色のペン。それが本物の夕日を浴びて、深い色に染まっていた。

「あぁあ! 思い出した!」

 彼の手が伸びて、わたしのペンを攫った。

「モヨ子に見せたいものがあるんだ」

 目の前に、ずい、と突き付けられたペンの色は、一層深くなっていた。日が沈んでいく。

「……それは、いいもの、ですか?」

「もちろん!」

 ペンを持つ手が降ろされて、いつも見せる、屈託のない笑みが視界を占める。彼の笑顔はきらきらとしていて、本当にアイドルなのだと実感させられた。

「明日の朝、4時に待ち合わせだ」

「朝?」

「寝て起きたら、それは朝だろ?」

 何も言えなかった。深夜じゃないかと思ったけれど、彼の世界でそれが朝なのならば、朝なのだ。彼の生きる、特別な世界。その世界の片鱗に触れた時から、わたしは彼に夢中だった。他の誰とも違う、他の誰も持っていない、彼だけの彼の世界。彼が失って、作り上げた世界。わたしの生きる常識とは違うロジックが好きなのだ。

「校門前ですね」

「遅刻厳禁だからなっ」

 彼の笑顔が眩しくて、目を細めた。はい、と小さく返事をして、彼の手からペンを受け取った。



 早朝の空気は、日中の気怠さを予感させていた。暦は秋を過ぎて、日の出は遅くなっている。気温も少しは下がってくれてもいいのに、まだまだうだるような日々は続いていた。

「おっ、ちゃんと来てるな!」

「プロデューサーですから」

 突き抜けて朗らかな声が、夜の校門前で響く。街灯に照らされた彼のオレンジが、綺麗に揺れている。彼が朝だというのだから、今は朝なのだ。

「さあ、行くぞっ」

 わたしの手を引いて、彼が歩き出した。掌が熱い。全身が熱い。
 街灯の白が、霞んだ星空を掻き消している。月はもう沈んでしまって、わたしたちは、街灯を繋ぐように歩いていく。
 どこへ行くかなんて聞かないし、聞けなかった。彼の世界に触れられるだけで、わたしは幸せだと思えていたから。

「こっちだ」

 大通りから外れてしばらく、青々とした繁みに入っていく。街灯はもうなくなってしまったけれど、空は少しずつ白んできて、足元の不安はなかった。少し背の高い青を掻き分けて、わたしは彼の背中を追いかける。

「大丈夫か?」

 時々、思い出したようにこちらを振り返って、彼は微笑む。

「大丈夫です」

「もう少し、だから」

 木立の隙間から見える空が、明るさに侵食されていく。わたしたちが繋いだ街灯たちが集まれば、夜は掻き消せるのだろうか。

「……モヨ子」

 彼がわたしの手を離した。木立を抜けて、急に空が広くなる。彼の頭越し、離れた場所に、また木立は続いている。

「着いたぞ」

 彼の隣に並んだ。淡く水色が広がる空の下、淡い緑が広がっている。

「……あ」

 淡い緑の正体は、丸い葉だった。大きな葉が一面に広がった沼。その平面の水面に、無数の淡いピンクが浮かんでいる。

「さあ、そろそろだ」

 太陽が木立の上に登って、強い光線が顔を照らす。じっと目を凝らしていると、徐々に花弁が開いていく。淡いピンクが広がって、世界に色が広がっていく。
 ふ、と彼の手が触れて、どちらともなく手を繋いだ。汗ばんでいたけれど、気にならなかった。

「……すごく、綺麗です」

 それ以上、言葉にならなかった。一面に咲いた遅咲きの蓮が、露に濡れてきらきらと輝いている。この景色を無駄な言葉で飾るような、無粋な真似をしたくはなかったのだ。

「そうだろ?」

「はい」

 吸い寄せられるように、わたしは水面へ歩き始めていた。今度はわたしに手を引かれて、彼がついてくる。慎重に水面に踏み込めば、膝下が泥に埋まった。構わず、わたしはそのまま進む。

「意外と冷たいですね」

「夏は終わってるからな」

「まだ、熱いのに」

「まだ、熱いからだぞ」

 腰が埋もれて、臍も埋もれた。一面の蓮の中、わたしと彼も、同じ花のような顔をして突き刺さっていた。

「月永さん」

「レオ」

「レオさん」

「何だ? モヨ子?」

 立ち止まって、振り返って、正面から手を握り直した。

「王子様みたい」

「おれは王様だぞ」

「そうでした」

 彼の笑顔は、やっぱり屈託がなかった。昨日は夕日だったけれど、今は朝日に照らされている。花の露と同じ、きらきらと眩しい笑顔。

「だから、モヨ子は、おれの女王ちゃんだ」

「……変な語感」

 思わず笑ってしまったけれど、嬉しかった。

「でも、すごく、嬉しいです」

 王子様、否、王様の女王様に選ばれたのだから。彼の世界に取り込まれたのだ。

「レオさん、好きです」

「おれはモヨ子のこと、大好きだぞっ」

 綺麗なお花畑で。下半身は泥に塗れているけれど、綺麗な花に囲まれて、いつか夢に見たような景色の中で、わたしたちはキスをした。
 まだ、愛なんて知らないけれど。

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